見出し画像

東大女子が悪いのではなく亜樹さんが悪い【東京都知事選石丸さんとのコミュニケーションの共通点】

今年の初夏はコミュニケーションについて考えていた。意思疎通のための言語が、どうして攻撃になってしまうのだろう。人と人はどうしてわかりあえないのだろう。
この問いが浮かんだのは、「バチェロレッテ3」でシリーズ史上最も気まずいクライマックスを迎えた亜樹さんと、東京都知事選を騒がせた石丸さんの二人に、どこか共通点を感じたからだ。


東大から経産省に進んだ亜樹さん。
京大からメガバンクに就職した石丸さん。
二人とも非常に頭が良く、活発な議論ができるタイプであるはずなのに、どことなく身勝手な印象を受ける。彼らのコミュニケーションスタイルには、対話ではなく論破になっている印象を受ける。

論破で名を轟かせたひろゆきでさえ、時に優しさや共感能力を見せ、チャーミングな印象を与えることがある。
しかし、亜樹さんと石丸さんには、そのようなチャーミングさが感じられない。

コミュニケーションスタイルの分析

この二人のコミュニケーションスタイルについて、以下のように分析した。

普通の人の場合

(自分)意見・感情  ←コミュニケーション→ (相手)意見・感情

会話は、キャッチボールのようにお互いの意見や感情を交換しながら、すり合わせをしていくものだ。

石丸さん・亜樹さんの場合

(自分)意見・感情 →→→→→(相手)×



(神の視点)第三者的な正義・論理

彼らは自分の意見や感情を持っている。しかし、相手の意見や感情が存在しないかのように扱う。しかし、一方的に「伝える」だけでなく、神の視点からの評価を監視されており、その第三者的な判断の「正解」を求めようとしている。

そもそも、学会などではない限り、二人で行う会話とは
多少ロジックが通っていなくても、本筋とずれていても問題ない。
しかし、石丸さんや亜樹さんは、その脱線や非ロジカルを許せない。なぜなら彼らは常に第三者視点を持っているからだ。

これらは、東大や京大といった高学歴で、コンサルティングなどで「結論から話せ」と強く求められてきた人にありがちなコミュニケーションスタイルである。ネットでは「アスペっぽい(笑)」と評価されることもある。

彼らにとって相手に寄り添うことは重要ではなく、ただ社会的な意義や「ロジックが通っているか」が最も重要なのだ。高学歴だからこそ、社会では許されてきたのだろうが、恋愛や政治のように『寄り添い』が必要になる場面では合わないのだろう。

例えば、櫛田さんが二人は似ていないと強調してもそれを丸無視したり、亜樹さんを「おはぎ」と評したシーンでも相手の意見を受け止めずに自分の意見を押し通したりしている。坂口さんが「同志」って言ってくれても、「同志って思わない」って言い返したりする。

亜樹さんへ→『なんでそういうことを言うのか』とわからない人に対しても、顔に出さず、誠意を持って向き合ったらもっと良いと思います。それかあなたは一人で生きていける経済力をお持ちなのだから、無理やり結婚相手やソウルメイトを探さず、一人で生きていくという道を選んでもいいかもしれないですね



ひいては本バチェロレッテは「デリカシー治療中なお転婆娘の婚活への第一歩!」という副題をつけるのが良いのではないか。そしてノンフィクションにして婚活ドキュメンタリーにしよう。


ザ・ノンフィクションだったら植草先生が「顔はついていればいい」「医者や経営者ばっかりを狙うな」など役に立つ話をしてくれただろう

けれども、超面白かった「バチェロレッテ3」。
なんだかんだ最後まで見続けたのは、予定調和がなく、製作陣の想像からも大きく離れ、「どうするよこれ」となるレベルで崩壊し、どうしようもない方向に進んだからだろう。リアリティーショーは本当に面白い。

亜樹さん、お疲れ様でした!

いつも読んでくださりありがとうございます!サポートは、お勉強代として活用させていただいております