自己紹介(仕事)の話
こんにちは。
趣味の話を書いていたら、仕事の話を書く余裕がなくなってしまったので、今回は僕の仕事の変遷について書きたいと思います。
趣味のところでも触れたのですが、学生時代の夢は漫画家とラジオのパーソナリティでした。
漫画家は19歳の時に諦めました。
ラジオのパーソナリティは、もともと高校を卒業したらアナウンサー学院に行って、話の勉強をしたいなと思っていたのですが、東京はお金がないから行かせられないと母親から言われて、まぁ自分も滑舌悪いしパーソナリティになれるわけないよなとあっさり諦めて、それならラジオに携わる仕事がしたい、例えばディレクターとか…、と思い、ラジオ局を目指しました。そのためには大卒が条件らしく、高校3年の夏に大学に進路変更をして、結局1浪して大学に入りました。
大学生の頃は読書に明け暮れ、小説やブログを書いたりして文章書きになりたいと思い、最終的にはライターかラジオ、というのが大学時代の夢でした。
そうなるとマスコミ関係だと就職課の人に言われ、広告代理店とかマスコミ系を色々受けていました。
そんな時、印刷会社に面接に行き、将来はライターになりたい、ということ言ったら、「なれるよ!」と言われ、結局そこの会社に入ることになりました。
初めて入った会社は印刷会社の営業でした。
印刷会社時代に、フリーのコピーライターに出会います。
「僕、ライターになりたいんですけど」
「それなら会社辞めたほうがいいよ。営業やっててもなれないよ」
と言われ、1年で会社をやめて、フリーライターとして独立をしました。この時24歳。
独立といっても計画があったわけではなく勢いでなったわけなので、右も左もわかりません。とにかく出版プロダクションに片っ端から営業に行き(静岡の土地柄出版プロダクションなんて殆ど無いんだけど)、すぐに仕事をゲットできました。
しかし、怠け者の僕は、ライターの取材に行っても、記事を締め切りギリギリまで書かずに、ゲームをする日々。結局収入が雀の涙程度でした。
そこで何を血迷ったか、今度は農業をやろうということで、なぜか畑を耕し始めました。実家の目の前には草ボーボーの畑があったので、それを草刈機ですべて草を切って、耕運機で畑を耕し、ブロッコリーを3,000株植えました。夏だったのでめちゃくちゃ暑かったです。
結局冬にできたブロッコリーは1,000株でした。1つ100円で売れたので、10万円の利益です。はい。やっていけません。
でも農業が楽しくなって、今度はとうもろこしを植えました。
夏に収穫して15万程度の収入。嬉しいけど、生活できないぞ。
その間、なぜか親と妹に借金をするようになってしまい、このままではいけないと思い再就職の道を選びました。
再就職したのはホームページ制作会社のライターです。それが25歳のとき。
その会社が薄給で。手取り13万くらいで、とてもやっていけない。
そしてライターという仕事にも飽き飽きしていたので、結局続かずにやめて、今度は富士フイルムという会社の工場に契約社員で勤めることになりました。これが26歳。
真面目に働いて正社員を目指していました。
さすがは一流企業なだけあって、給料は良いし、残業代は出るし、休日出勤代も出る。休みも4勤4休だったので、年間半分休み。天国かと思いましたよ。
そんなときにふと思ったのです。フリーペーパー作ろうって。実はフリーライター時代にフリーペーパーを作ろうと画策していました。久しぶりに再会した小学校の時の友達がデザイナーになりたい感じだった(曖昧な状態だった笑)ので一緒にフリーペーパーを作ろうよと盛り上がっていたんです。でもお互い仕事が忙しくて尻すぼみになり、話が頓挫しました。
しかし、いま年間半分休みでわりと暇!ということで、友達を呼び出し、あのフリーペーパーを再び作ろうよ!と声をかけて、とりあえずまずは第1号作ろうということで作りました。それが「静岡維新」という雑誌でした。
雑誌のタイトルに込めた思いは、静岡を文学や芸術で維新する、というもの。
その裏に込めた思いは、自分を変えたい!というものでした。
雑誌のコンセプトは「文学芸術マガジン」。僕みたいに小説を書いていても世になかなか出せない人がいます。その人の作品を有料で雑誌に掲載するというもの。小説に限らず、絵画や彫刻・イラストなどのアート系もOKにして、芸術マガジンを創刊したのです。
それがなぜか話題になり、新聞の取材が来て、なぜかNHKに出ることになり、ラジオでは東京の番組で電話ゲストで出たり(ダイヤモンド☆ユカイさんの番組だったなぁ)、そしてアーティストを束ねて交流会をやったりと、なんかよくわからん流れになっていきました。
それがすごく楽しくて、これが仕事になったらいいなぁなんて考えるようになり、そこで起業というものを意識するようになりました。
静岡の起業支援センター的なところにいって色々学んだり、起業の本を読んだり、ミクシィで起業したい仲間と会ったり、なんか交流を深めていきました。
この時、僕は気づいていました。
仕事は人生の半分以上。その仕事がつまらなかったら、人生の半分以上はつまらないものになる。仕事が面白かったら、少なくとも人生の半分以上はハッピーである、と。
そして、楽しい会社は存在しないことも。
ならば、自分で作るしかないんじゃないか。
そうだ、とびきり楽しい会社を作ろう!
楽しいときって時間を忘れて没頭できる。そんな毎日だったらどんなにステキだろう。
そんなことを思って、会社を作ることにしました。
正直、社長になるなんて学生時代まで夢にも思ってなくて、今でも思っているけど、社長になるしかなかったんですね。実は団体行動が苦手で、どうも一匹狼気質なところがあって、会社組織には馴染めない性格なんです。社長は仕方なくなるしかなかった手段だったのです。
そして会社を作るために仲間集めをはじめました。色々ありましたが(長くなるので割愛)、ある時一人の女性が静岡維新の雑誌を見て、ここで働きたいと連絡してきました。デザイナーの学校を卒業するところの学生でした。つまり就職活動でうまくいかず売れ残っている感じの。彼女に思いを伝え、今度の9月に会社をやめて、新しい会社を作るから一緒にやろう、ということで了承してもらって、二人で会社を始めることになりました(その彼女は社員で経営陣ではない)。
実は一人で独立しても良かったのですが、以前にライターで独立した時に遊びに逃げてしまったことがあり、誰か監視役が必要だと思っていたんですね。誰かとやらないとたぶんダメになるだろうなと。なので、誰かしらと一緒にやりたかったわけです。
そして2011年9月に維新エンターテインメント株式会社を創業しました。
社名の由来は、静岡維新という雑誌を作ったとき、すごく維新という言葉が良いエネルギーを与えてくれたのもあり、また僕自身幕末の志士たちの魂が好きで、そんな不撓不屈の精神を受け継ぎたいと思って「維新」をつけました。
また、エンターテインメントは、僕は一貫して「物語」を作ってきていて、物語の力をすごく信じていました。いつか物語を使ったビジネスをしたいと思っていて、それこそ広い意味でエンターテインメントをやりたいと思い、「維新エンターテインメント」という名前に決めました。
理念は「ENJOY」です。
決めたのはそれだけでした。
事業内容は、静岡維新という雑誌を作っていて、僕はライターの経験がある、デザイナーは紙のデザインができる、ということで、雑誌制作や広告制作をスタートとしました。
28歳のときでした。
それから気がついたら現在7年目となっています。
この7年いろいろなことがありました。特に変わったのは仕事内容です。そのときには考えもしなかった「謎解き」という全く新しいジャンルのエンタメをやることになるとは…。いまはそれがメインビジネスになっていて、それに加えて以前からやっている広告制作業務が主な事業です。ただ、そこから派生して、なんとありがたいことにラジオの構成作家・ディレクターもやっています。奇しくも夢がかなっております笑 いろいろお声をいただき本当にありがたい限りです。
僕の創業からの目標は、年商100億の会社にすること、です。
理由は簡単で、堀江貴文さんの本に、「誰でも100億は稼げる」って書いてあったから、それなら100億にしよっ、って軽い気持ちです。
でも、僕は大きい会社を作りたいと思っています。理由は、楽しい会社に勤めて楽しい人生が送れる人がたくさんいたほうが、楽しい社会になると思うから。だから自分の会社で働く人は理念の通り「楽しい」を体現してほしいし、そういう会社にしなきゃいけないなと思っています。事業内容はなんでもいいから、楽しく仕事ができる環境を作っていきたい。ま、いま二人だからそんなレベルの話じゃないんですけど笑
ということで、仕事の話はこんなところで。
でも語りたいこといっぱいあるので、またどこかで小出しにしていきたいと思います。