第40回 近衛天皇の后争い。
久安6(1150)年正月4日、病弱だった近衛天皇も12歳で元服し、早くも后妃の話が進みます。
先手を取ったのは左大臣頼長(31歳)でした。正月10日、妻幸子の姪に当る徳大寺公能の娘多子(まさるこ?:11歳)を入内させました。
多子は大変な美少女で、その筈。あの絶世の美女・璋子が大叔母に当ります。多子は後に二条天皇にも恋慕され「二代の后」となっています。
3月14日、多子は皇后となりました。
頼長の異母兄・摂政忠通(54歳)も負けていません。忠通はもう未婚の娘がいなかったのでこれまた妻の姪で藤原伊通(高松方頼棟の曾孫)の娘・呈子(しめこ:20歳)を更に美福門院得子の養女として、4月21日入内させます。
嗅覚の鋭い忠通は、それまで「諸大夫(しょだいふ)の娘」と摂関家より低い家柄として見下していた得子に接近する事にしたのです。それに対して頼長は相変わらず、諸大夫の女と馬鹿にしていたのが得子の耳に入り敵に回しています。
6月22日、呈子は中宮に冊立されました。前述しましたが、中宮はもともと皇后の別称で同一だったのですが、道隆や道長が別の物として扱い、「一帝二后」という一人の天皇に二人の后がいるという事態になったのです。
全く同格の多子と呈子。次の焦点はどちらが先に皇子を儲けるかでしたが、近衛天皇が病弱で望みは薄そうでした。(続く)
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