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第79回 長田忠致(おさだただむね)の誤算

平治2(1160)年正月、長田忠致が尾張から源義朝と家来の鎌田政清(政家よりこちらの方が有名みたいでした)の首を携えて上洛してきました。
「壱岐守に任ずる」
朝廷からそれを聞いた忠致は不服でした。壱岐は当時、離れ小島の下国だったからです。
1月9日、義朝と政清の首は獄門にかけられました。
「父親を殺した報いよ」
かつて保元の乱の後、父為義を斬った義朝の無念の首を見ながら、人々は語り合いました。怒る者もいれば、同情して泣く者もいました。

思っていたより少ない恩賞に、長田父子は厚かましくも清盛に無心に来ました。
「願わくば義朝公が頂いた播磨の国、あるいは我らの土地の尾張の国司にでも・・・」
傍で聞いていた腹心の家貞は烈火の如く怒りました。
「返り忠をしていて何と厚顔な!そなたたちも死罪とされたいか!」
長田父子はすごすごと帰りました。

長田忠致は30年後、平家を倒し、征夷大将軍に任官直前の源頼朝から残虐な方法で処刑されるのでした。(続く)


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