第18回 顕仁親王(後の崇徳天皇)誕生
白河法皇の人倫に外れた行動を誰も諌止できませんでした。忠告しようものなら我が身が危ないからです。もう大江匡房の様な賢臣も全て亡くなっていました。祇園の女御くらいが言えたでしょうが、法皇はうまくごまかしていました。
これも「独裁者の悲劇」です。法皇自身もブレーキが利きません。ヒトラーの如く、独裁者は周囲を国民をも不幸にします。この白河法皇の行為はやがて保元の乱以降、多くの人の命を犠牲にするのでした。
月満ちて、元永2(1119)年5月28日、璋子は皇子を産みました。顕仁(あきひと)親王ー後の悲劇の崇徳天皇です。
白河法皇は狂喜します。67歳にしてできた我が子(表向きは曾孫)です。
そして白河法皇はこの若宮を守るために冷静に手を打っていきました。
まず、長年の懸案であった輔仁親王への処置です。親王には有仁(ありひと)王という17歳の美男で英明な皇子がいました。
8月14日、有仁王を臣籍に下し、源有仁としました。これで完全に皇統から離脱しました。
10月17日、法皇は未婚であった璋子の姉を源有仁と結婚させます。しかしきちんと言い含めていました。「有仁との間に子を成してはならぬ」
有仁は別の女性との間に男子1人(出家)、女子2人(女房として出仕)を儲けましたが、子孫は絶えました。
絶望を感じたのでしょうか、その年の11月28日、英明と謳われた輔仁親王は47歳の生涯を終えます。
翌年4月、生後1年になっていない顕仁親王と共に白河法皇は賀茂祭り(葵祭り)に見物に出かけます。かつて早世した我が子堀河天皇が5歳の時に一緒に行ったという記録があります。
その年の5月、忠実には新しい妻ができ、男児を儲けました。5月で菖蒲(あやめ)が咲いているので「菖蒲君(あやぎみ)」と名付けました。後の保元の乱で敗死する藤原頼長です。(続く)
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