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第95回 忠通の晩年と父・忠実の死

応保2(1162)年、前関白忠通はすでに66歳になっていましたが、50前になったから多くの子を成し、その頃は老いらくの恋にうつつを抜かしていました。若い五条という女に夢中になっていたのです。
しかし忠通はその五条から手痛いしっぺ返しを受けました。
何と五条は、異母兄と密通したのです。

女房から密告を受けた忠通は、恐るおそる部屋に行って、そして現場を見てしまいました。
五条とその兄は放逐したものの、忠通は激怒の余り腰を抜かしてしまい、病床に臥すようになってしまったのです。
そんな時に父・忠実の危篤が伝えられました。
「しかし、まろはもう行ける体ではない」
涙が忠通の頬を伝いました。かつて父子でありながら激しく対立し、保元の乱では直接戦わなかったものの敵味方となりました。
乱後やっと和解しましたが、朝敵頼長の父ということで、忠実は洛北の知足(ちそく)院で幽閉状態だったのです。

その年の6月18日、院政期にあって摂関家の若き当主として苦闘した忠実は85歳で亡くなりました。(続く)

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