第124回 鹿ケ谷の変(1)
安元3(1177)年4月28日、太郎焼亡と呼ばれる大火があり、京の3分の2が焼失しました。大極殿も焼失しました。
「信西殿が渾身を傾けて造った内裏の半分も焼けてしまったか」
清盛は20年前の事を思い出しました。
その頃、後白河法皇の近臣の僧・西光(さいこう)の子が比叡山の末寺と悶着を起こし、西光は法皇に泣きつきました。湯浴みの水を貸してくれ、くれないの些細な事からその末寺を焼いてしまったのです。これに怒った比叡山が強訴を何回かしてきて両者の首謀者を流罪にしたものの解決せず、法皇を悩ませていたのです。
法皇は清盛に命じました。
「比叡山のかねてよりの横暴を抑えるためにも兵を出せ」
しかし清盛は逡巡しました。亡き父忠盛の遺言にも、叡山とは事を構えるなとあったからです。
そして6月1日、東山鹿ケ谷の僧・静賢(じょうけん:信西の子)の山荘に後白河法皇を迎え、平家の専横を憎む面々が集まっていました。
西光、その兄成親(なりちか)。成親(40歳)の妹は重盛の正室でしたが、年下の宗盛(31歳)に希望していた右大将を取られ恨んでいました。そして俊寛僧都も来ていました。
「平家は最近増長しすぎております」
「確かに力を持たせ過ぎたのう。ただの侍であったのに」
法皇は、寵愛する滋子を亡くしてから驚くほど、清盛の情は薄らいでいました。感情の変化、愛憎の深さが法皇の特色でした。
「しかし比叡山の追討を清盛に命じた。うまくいけば共倒れよ・・・ははは」
「さすがは法皇様。その後で、ここに控える多田源氏の行綱に襲わせれば平家は全滅でございます」
「そうか?」
しかし指名された行綱の表情は蒼白なものとなっていましたが、周囲の者は酒に酔って気づきませんでした。(続く)