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第98回 基実と盛子の婚礼

長寛2(1164)年4月、平清盛は、亡き忠通の家司(けいし)の藤原邦綱からの申し出で、あの平治の乱で謀反人として処刑された藤原信頼の妹を離縁した摂関家当主の基実(22歳)と清盛の四女で僅か9歳の盛子姫との婚礼を進めました。
邦綱は若き基実を支えるという事で、すでに摂関家を代表する発言をしていました。
「亡き忠通様は平家との婚儀を望んでおられました」
そして邦綱は少し年上の清盛を崇拝し、息子を清盛の養子にしたり、娘の輔子を清盛の五男重衡の妻としました。輔子は後年、安徳天皇の乳母となり、壇ノ浦後も生き延びて、処刑寸前の重衡と再会するという逸話があります。

「徳子(後でつけた名)は、憲仁親王(後の高倉天皇)の妃とするゆえ、盛子を摂関家に嫁がそう」
正室時子が産んだ娘は徳子だけでした。三女の徳子は皇室様に取っておいたのです。

「平家と組んでおけば摂関家も安泰でございます」
邦綱に説得され、亡き父・忠通の遺言を思い出す基実でした。
しかし、婚礼した僅か9歳の幼な妻を見るにつけ、基実は我が身の無力感を強め、やがてそれは健康を蝕んでいきました。(結局24歳で亡くなります)(続く)

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