第4回 関白師通(もろみち)の若死に
摂関家は全盛は過ぎましたが、しかし隠然とした勢力は持っていました。
そして頼通の晩年にできた嫡子・師実は温厚で女色好き(10人以上の妻に18人の子女がいます。最初側室を持たなかった父頼通とは大違い!)でしたが嫡男師通はなかなか気鋭でした。
師通は15歳の時、再従姉にあたる17歳の全子と結婚します。全子は権大納言俊家の娘で、俊家は父が高松方の筆頭頼宗、母はあの伊周の娘です。
二人の夫婦仲は良く、2年後には嫡男(忠実)が生まれます。
しかし更にその2年後の8月、亡き教通の子、信長(59歳)が太政大臣、全子の父俊家(62歳)が右大臣に昇進しました。俊家は父と同じ右大臣になれたのが嬉しかったのですが、10月に事件が起こります。
その時左大臣は師実だったのですが、太政大臣信長はいますが、全公卿の筆頭は師実であるという勅命を受けます。元々太政大臣は名誉職的な色合いが強かったのですが、はっきり宣言をされた信長は怒って牛車を焼き、籠居してしまったと言われます。
これを解決するためか、師実の嫡男師通と信長の養女信子との婚礼が行われます。もともと鷹司方の同母兄弟であった頼通と教通ですが、晩年に摂関職の継承を巡って対立があり、今回の事もあってそれを払拭するためのいわば政略結婚です。
しかし師通は新しい妻信子をえらく気に入り、全子の所へ来なくなりました。
全子は幼い忠実を連れて、両親の邸に帰ります。
そして2年後、自分を慈しんでくれた父・俊家が64歳で亡くなると、肖像画を描かせ、その遺影に向かって毎夜、「師通の命を縮めさせたまえ」と祈ったそうです。何か哀れなそしておぞましい感じもしますが、忠実の偏執的な性格はこの母の影響を受けたのではないかとする学者もいます。
師通は33歳の時に父から関白を譲られ、若い堀河天皇と共に新しい雰囲気で政治を行いました。さすがの白河法皇も一時は若い二人に任せた感があります。
しかし全子の呪いも効いたのでしょうか、師通は38歳で急死します。
そして次の関白をどうするかと隠居していた師実(58歳)に打診しますが、結局、何と21歳の嫡男忠実が継ぐ事になりました。
若すぎるので、忠実は関白ではなく「内覧」となりましたが、ここに至って、摂関家の勢力は更に弱まり、完全に白河院政の元に雌伏する事になったのでした。(続く)
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