第39回 忠通の母と平家盛の死
忠実(71歳)は43歳で儲けた次男頼長(29歳)が可愛くて仕方ありません。自らの荘園をたびたび頼長に譲与していました。これに頼長の異母兄である長男忠通(52歳)は面白くありません。男子のいなかった忠通はかつて頼長を養子とした事もありましたが、忠通もまた47歳にして男子・基実に恵まれその2年後に別の女性に基房、更に別の女性も懐妊していると女色にやや溺れていました。
そんな久安4(1148)年8月、鳥羽法皇の寵愛厚い得子は「美福門院」の女院となり、璋子が亡くなって3年。増々勢力を伸ばしていました。
12月、忠実の正夫人・師子(かつて白河法皇の皇子を産んでから忠実の妻とされた)が79歳で亡くなりました。師子は忠通の母であり、この頃の父子の不仲を案じていましたが、これで父子を繋ぐ絆が切れました。お互いに我が子に財産を譲ろうと衝突していきます。
平家にも激震が走りました。翌久安5年3月15日、鳥羽法皇の熊野詣でにお供していた次男家盛(29歳)で途中で病没してしまったのです。
家盛は、平忠盛(54歳)の後室宗子(46歳?)が最初に産んだ男子でした。一応嫡男は清盛(32歳)の感じだったものの、やはり正室の子。家盛もなかなか優秀で、家中は二分されそうな空気が出てきていた所でした。
しかし家盛の死で、宗子が産んだもう一人の男子頼盛は18歳。桓武平氏の棟梁は清盛と名実共に決まった年でもありました。
尚、平治の乱後、源頼朝の助命の時に、宗子(池の禅尼)は「亡き家盛に似ております」との理由をつけましたが、頼朝は小柄だったので本当に似ていたのかなあ?と疑問が起こります。頼朝が仕えていた上西門院統子内親王(後白河天皇の同母姉)からの依頼が宗子に来たのではというのが有力な説です。ただ、この頼朝の助命で頼盛は後に平家一門から恨まれ、破門状態となってしまいました。(続く)