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第34回 摂関家にも暗雲の兆し

康治2(1143)年閏2月、鳥羽法皇と崇徳上皇とで熊野詣でに行ったという記録があります。前年12月に璋子が独りで行き、心身共に弱っている(2年後に死)ので、不仲の二人が歩み寄ったのでしょうか?不仲と言っても崇徳上皇は鳥羽法皇を父として敬愛している訳ですから、鳥羽法皇の気持ち次第でした。
その年、疱瘡がまた流行し、5月に崇徳上皇が罹患した時、法皇が見舞いに訪れています。
そして雅仁親王(後の後白河天皇)の妃・懿子は懐妊中でしたが、疱瘡に罹(かか)っており、6月に皇子を出産したものの亡くなってしまいました。
守仁親王(後の二条天皇)と名付けられた皇子を、鳥羽法皇の皇后得子が引き取ります。これは得子には考えがあって、我が子で5歳の近衛天皇はとても病弱で(結局17歳で崩御)もしもの時はその後を守仁親王に継がせようと思って養子としたのです。更に自らの3人の皇女の内、誰かを娶(めあわ)せれば自分の血統が繋がります。

さて、摂政忠通(47歳)には記録上それまでに男子が3人あるのですが、早世や何故か僧籍などになっていて、異母弟の頼長(24歳)を後嗣としていました。
しかし何と久しぶりにその年、男児ができたのです。後の近衛基実ですが、弟より我が子が可愛いのは当然の事。
古くは壬申の乱の原因となった、天智天皇は弟大海人皇子より我が子大友皇子を愛しました。
下っては応仁の乱で、足利義政は異母弟の義視より、当然我が子の義尚を推しました。(乱の本当の原因はこれではないというのが新説で出て来ていますが。畠山氏の内紛、細川と山名の対立など)

忠通は47歳にしてできた嫡子を可愛がり家督を譲りたく思いました。しかしそれは異母弟の頼長や実父・忠実(66歳)との対立を当然呼ぶのでした。(続く)

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