第46回 近衛天皇崩御。後白河天皇即位。
久寿2(1155)年6月1日、頼長(36歳)の正室幸子が44歳で亡くなりました。男色家の頼長の妻としてどこまで愛されたか分からない生涯でした。そして同時期に近衛天皇(17歳)の眼病が重症化します。
頼長が葬儀や物忌みなどで出仕できないのを利用して、関白忠通(59歳)はここぞとばかり鳥羽法皇(53歳)に奏上しました。
「帝のお眼が悪いのはやはり新院(崇徳上皇)と頼長の呪詛の仕業です。愛宕山に眼を打ちつけてある像が見つかったと言います」
驚いた法皇はすぐに調べさせました。確かに両眼を打ちつけられた像が見つかりました。恐らく忠通の自作自演でしょうが。
そして7月23日、近衛天皇は若くして崩御されました。悲しみに沈む法皇と母得子(39歳)でしたが崇徳上皇に対する怒りは頂点に達しました。
「新院の子の重仁(16歳)など絶対に許さぬ!」
一時は病弱な近衛天皇の東宮候補であった重仁親王は完全に外されました。
「守仁(13歳)しかおらぬか」
女帝という案もありましたが、やはり男子をという事になりました。ここで学者でもあり、守仁親王の父、雅仁親王の乳父でもある信西(50歳)が進言しました。
「父親が生きておるのに、息子を立てれば、後世の謗(そし)りとなるでしょう」鳥羽法皇は考え、言いました。
「仕方がない。雅仁を繋ぎで立てよ」
早馬で聞いた雅仁親王自身が仰天しました。29歳。皇位になど無縁であると思っていたのです。この時、雅仁親王は兄・崇徳上皇と同殿していました。
「兄上に挨拶を・・・」しかし信西がそれを遮(さえぎ)りました。
「新院様に言うとかえって、ご迷惑でございますよ。さ、さ、早く・・」
こうして雅仁親王は恩義ある崇徳上皇の中御門東洞院第から挨拶もせずに内裏へ向かいました。
全てを聞いた崇徳上皇は最初呆気に取られ、やがて怒りと悲しみに襲われました。
「あんな文にもあらず、武にもあらず、ただ今様狂いの者が万乗の君になるのじゃ!重仁が哀れでならぬ・・・」
崇徳上皇はただただ嘆くのでした。(続く)