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第115回 頼通の最後の賭け

永承5(1050)年。頼通は59歳になっていました。父道長から摂政を受け継いだのが26歳の時。足かけ34年も摂政・関白を独占し政界に君臨しています。しかし父が成し遂げた外戚政策は自分はうまくいかず、ひたすら父の遺産を食い潰す日々でした。

しかしこの年の12月、頼通は15歳になった実の娘寛子を後冷泉天皇の女御として入内させます。以前、養女の嫄子は二人の皇女を産んで亡くなりました。今回が最後の賭けです。
寛子の母は、具平親王と香子の義理の叔母・大顔との間にでき、従兄・伊祐の養子とされた頼成の娘祇子でした。頼通の正室は具平親王の王女・隆姫ですし、何か不思議な因縁を感じます。

寛子は関白家の姫として盛大に入内し、女房には小一条院の皇女(あの藤原顕光の不運な娘延子の子)までが女房として出仕します。
翌年正月、その小一条院敦明親王は58歳で亡くなります。

2月に、後冷泉天皇にはすでに中宮として章子内親王(後一条天皇の皇女)がいたので、頼通は寛子を皇后として、ひたすら皇子誕生を祈るのでした。
しかし寛子立后には、先に娘歓子を入内させていた弟・教通が抗議の籠居をして、鷹司方にもひびが入ってきて、大宮彰子は頭を悩ませた事でしょう。

11月には後一条天皇の遺したもう一人の皇女・馨子(けいこ?きょうこ?)内親王(23歳)が東宮尊仁親王(18歳)の妃となりました。皇室・摂関家を統合する大宮彰子の考えでしょう。

しかしその尊仁親王は東宮御所を突然検非違使に包囲されたり、不穏な中で生活していました。頼通が廃太子にしようと企んでいたのは明白でした。
その頼通はその年の12月に六十の賀を行いました。まだ偉大な父道長と並ぶ可能性を信じて。(続く)

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