第23回 鳥羽上皇の微妙な変化
白河法皇は崩御の1ヶ月前の6月に1度体調を崩され、死期を悟っていた様でした。危篤になると、かつて師子(現・忠実の夫人、摂政忠通の母)との間に生まれ僧籍に入れられた覚法法親王(39歳)が呼ばれ、受戒をされました。傍には『鳥獣人物戯画』で有名な覚猷(かくゆう:77歳:源高明の曾孫)ら多数の僧が加持をしていたようです。
祇園の女御ももちろ侍していましたが、法皇の崩御後、出家した様です。
清盛はどうしたでしょうか?正月に元服して、摂関家の子弟並みの従五位下に叙されました。その時か、女御が出家した後に、平家の六波羅邸に戻った様です。平忠盛(34歳)はもちろん丁重に迎えましたが、後室宗子(26歳:後の池禅尼)は心穏やかではありませんでした。宗子は次男家盛(7歳)を儲けており、「殿はどちらを嫡男として扱うのだろうか?」と案じていた事でしょう。宗子に侮られないためにも祇園の女御は法皇を動かして従五位下に推したのでしょう。忠盛は艶福家で、他の女性たちにそれぞれ、経盛(6歳)、教盛(2歳)、生母不明の女性から姫たちも多く生まれていました。
さて、鳥羽上皇と璋子ですが、法皇崩御後も表面上は変わりませんでした。璋子の美貌は変わらず、上皇の愛も変わってはいませんでした。
白河法皇の崩御後の翌月・閏7月10日、かねて眼病だった通仁親王が6歳で夭折しました。璋子はちょうど出産直前で、我が子の死は聞かされていなかった様です。そしてその10日後、璋子は鳥羽上皇との最後の皇子を産んだのでした。(後の覚性法親王)
璋子への愛は変わらないとしても、今まで白河法皇からは璋子以外の女性との交渉は禁じられていました。しかし重石はなくなったのです。27歳の新しき独裁者として鳥羽上皇は女色に染まっていきました。それも璋子付きの女房を次々と狙いました。ただの好色か復讐か。
璋子にとっては愉快な事ではなかったでしょう。しかし璋子は、身分の低い女性が自分の代わりをしてくれてるのだと思い直し、腹が膨れた女房を労り、子が生まれるとその世話もしたりしました。
鳥羽上皇の女色は次第に公然のものとなり、かつて自分と婚姻の話があった忠実の娘・勲子の事を思い出しました。摂関家の姫との婚礼の話が再燃した事を聞いて、璋子は脅威に感じます。(続く)