第57回 「若紫」か「わが紫」か
11月1日、敦成(あつひら)親王と名付けられた彰子の産んだ皇子の生後五十日の祝いの宴が土御門殿で盛大に行われました。
多数の公卿と香子はじめ女房達も出席します。
公卿は恐ろしく酒に乱れます。主催者の道長は目出度い事なので放置しています。
特に右大臣顕光は、かつて娘元子が「水を産んだ」と嘲笑されたので、荒れています。いろんな女房達に突っかかっています。香子は、敬愛する再従兄・権大納言実資を見ると酒に余り強くないのか大人しく人々を観察しています。
そこへ同じ再従兄で歌人でもある権大納言公任がやってきました。公任は道長と同い年ながら完全に臣従しています。同じ小野宮家の血を引き、道長とは一線を画す実資とは偉い違いです。
通説では、酔った公任は、香子ら女房がいる近くまで来て、「あなかしこ、このわたり、若紫やさぶらふ」と香子に呼びかけましたが香子は無視します。傍の女房がこちらを見てるが、「源氏(光源氏)に似た人もいないのに」と思ったと、「紫式部日記」に書いてあります。
ここで前述(第55回)紹介した萩谷 朴先生がまた面白い解説をされています。香子はこの時もう四十前、若紫は10代前半の少女です。いくら何でもアラフォーの女性に「少女はいますか?」は冗談にしても少しきつい。今、職場でそれをやったら大変な事になりますよね。
萩谷先生は「わが紫はいますか?」ではないかという説を述べています。それなら「私の紫の上」なので、第一部の終わりでは光源氏40歳、紫の上32歳と想定されるのでまあまあ合っています。日記の原本はありません。すべて転写、転写で来ています。いつの間にか濁点が抜けたのではないか?
まあ千年以上前の事ですから真偽は分かりません。私は「我が紫」説に賛成します。
そしてこの年、1008年に『源氏物語』が絶対に存在したという事で、2008年を『源氏物語千年紀』そして11月1日を「古典の日」としたのでした。