第72回 宇多天皇即位後の事件
たった1日で、源定省(21歳)が、ただの賜姓源氏から親王復帰そして東宮、更には帝位を践祚とめまぐるしく変貌したのは、京中の驚きでした。
これを聞いた陽成上皇(20歳)も、
「定省が?あれは朕の家来だった者ではないか」
と、驚いたやら、呆れたか自慢したかは細かい所まで分かりませんが、発言が『大鏡』に記載されています。
基経は、「光孝帝が最愛の皇子だったから」と説明しましたが、定省は早くから尚侍淑子の養子となっていましたし、だいたい第7皇子。正室の班子女王からしても3番目の皇子だったのでそんな長幼の序を乱す方か?など謎は深まるばかりでした。
11月17日、盛大な即位式の後、21日、宇多天皇は太政大臣基経を、舅で文章博士の橘広相の案で「関白」に任じます。
更に同日、これは後年の人にまた疑惑を持たれる根拠となりましたが、養母淑子を正三位から人臣最高の従一位に叙したのです。淑子は位からいけば、基経と同格になった訳です。
淑子は勿論感激の涙でしたが、周囲は「よほどの恩義を感じているのだなあ。何をしたんだろう?」とまた疑惑の目を向けるのでした。
この動きに不愉快だったのが、基経です。
「誰のお陰で、帝位に即けたのだ!」
宇多天皇と淑子、そして橘広相は娘を妃にしてご機嫌です。
可愛い外孫の貞辰親王さえも我慢して宇多天皇に回したのです。それもこれも陽成天皇を退位させるために淑子の協力が不可欠だったからです。
閏11月26日、基経は型どおり「関白」を辞退しました。文章博士・橘広相は翌日、用意していた「阿衡(あこう)」の称号を奉りました。
ここで基経は聞きなれぬ「阿衡」について、お抱えの学者・藤原佐世(すけよ)に調べさせました。
するとしばらくしてから佐世が、
「阿衡というのは殷の官職ですが、名誉だけのものだった様です」
との答えが来ました。基経は喜びました。
「これであいつらに鉄槌を下す事ができる。わしの力を見せてやるのだ」
不敵な笑みを基経は浮かべました。(続く)