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第48回 基経の四十の賀

貞観15(873)年11月、基経は、入内させたのに一向に懐妊しない長女頼子に加えて次女佳珠子(かずこ:15歳)を入内させました。高子は兄の行動に呆れています。
そして翌年、佳珠子はまもなく懐妊します。やがて高子も3度目の懐妊をします。
その年の末に佳珠子は皇子を産みました。貞辰親王です。高子も敦子内親王という皇女を産みました。
「兄上は、孫の貞辰を次の東宮にしたいのかしら」
すでに現在の東宮の母ではある高子ですが、周囲もざわついています。
良房が亡くなる頃に、左大臣に源融、右大臣に基経が就任しましたが、二人の間はしっくりいっていませんでした。官位は上なのに、融を差し置いて基経が全てを仕切っていたからでした。更に融の妻は基経の叔母。義理の叔父をないがしろにする態度に融は次第にいらついてきていました。
「まろは嵯峨天皇の皇子ぞ」
出自では上の融なのでした。

翌貞観17(875)年正月、基経は四十の賀をします。平均寿命が五十いくかいかないか。還暦までいけば長生きとされた当時。四十までまず生きれたら祝いをするのでした。十年ごとに行います。現在でもその風潮はあり、厄年に加えて、私の田舎では数え四十になると「初老祝い」と言って同級生が集まり男は祭りで神輿を担ぎます。

さて、やはり宴の席ですから、基経は「歌人・業平」を招きました。人々は不安と期待で興味津々でした。なぜなら業平は「何かやらかしそうな人」だったからです。

基経は上機嫌でした。先月、初めての外孫の皇子が産まれていたし。業平が何をしようがびくともしません。
『伊勢物語』第97段に端的にその様子が描かれています。
平安京の一番南の九条邸で賀の宴が行われました。そして業平が所望され歌を詠みますが、上の句を聞いて皆最初ぎょっとします。
業平「桜花散りかひ曇れ老いらくの・・・」-桜花よ、散り乱れて、あたりを曇らせよー桜花はいいとして、「散る」ー死ぬという意があるー、「曇れ」、「老いらく」・・禁句を並べてお祝いの歌とは言いかねます。

しかし業平は澄まして下の句を朗々と詠みます。
「来(こ)むといふなる道まがふがに」-老いがやってくるという道が、分からなくなるくらいにー
つまり、桜花が散り乱れて、老いの道を隠しておくれーという祝いの歌に仕上げたのでした。皆を最初驚かせて、最後はほっとさせる・・・もうこの時51歳の業平は、相変わらず屈折した茶目っ気のある翁となっていたのでした。(続く)

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