第32回 騙し討ちで崇徳天皇譲位。
『源氏物語絵巻』誕生で沸き返る保延6(1140)年6月、璋子が産んだ末子の皇子、本仁親王(12歳)は、仁和寺で出家する事になりました。将来の事を考えてでしょうか、璋子の強い希望とも言われます。覚法法親王(白河法皇の皇子。師子ー忠実の妻、忠通の母ーが母)の受戒で、覚性(かくしょう)法親王となりました。法親王は母を亡くした甥の9歳の守仁親王(後白河天皇の皇子)を引き取りましたが、守仁親王は13歳で皇太子に指名されると去っていきました。そんな事もあるのでしょうか。保元の乱で敗れた兄崇徳上皇が助けを求めてくると拒否しています。
保延6年の9月に、兵衛の佐は崇徳天皇の第一皇子重仁親王を産み、乳母には平忠盛夫妻が任じられました。これは大恩ある白河法皇の事を考えてという事で、その後、保元の乱では忠盛の子、清盛は崇徳上皇に付くべきか悩んだようですが、継母宗子(池の禅尼)が反対側に付く様に指示したと言われます。
同じ9月には鳥羽僧正が88歳で亡くなっています。
(10月の佐藤義清出家は前述したので割愛)
翌年3月、鳥羽上皇は病を得たのか出家して法皇となります。
ただ、女御得子は4度目の懐妊して、11月に皇女・姝子内親王を産みます。結局、得子との皇子は数えの3歳になる躰仁親王だけなので、鳥羽法皇と関白忠通は奸計を取ります。崇徳天皇を譲位させて、躰仁親王の即位を諮ろうというのです。
崇徳天皇は、「まだ東宮は3歳ではないですか」と断りますが、(恐らくは忠通が言ったのでしょうが)
「東宮は帝のご養子。即位すれば院政が行えます」
と言葉巧みに譲位を決意させます。そして譲位式の当日、譲位の宣命を見ると、
「皇太弟に譲る」とあります。皇太子と皇太弟では大違いで、院政は直系の尊属しか行えない不文律があります。皇太弟では院政は行えません。
「こはいかに」と崇徳天皇は言ったといわれますが、忠通が「式の最中でございます」と押しとどめて強行してしまったと言われます。
崇徳上皇は、まんまと騙し討ちされ、政界の圏外へと追いやられてしまったのです。忠通は娘聖子の他の女性に子を産ませた崇徳上皇を恨んでいたのでしょう。
鳥羽法皇は大笑い。悔しがる崇徳上皇。望みは皇子・重仁親王の即位で、一応得子は養子にすると崇徳上皇をなだめていましたが、即位させる気など無いことは周囲には分かっていました。(続く)