第120回 東宮妃茂子の死
康平5(1062)年6月22日、東宮妃茂子が亡くなりました。正確な年齢は伝わっていませんが、東宮尊仁親王が29歳ですから少し上だったと思われます。
養父であり、東宮大夫であった能信(68歳)の嘆きは深いものでした。
「あと少し。もう少しで東宮が即位するし、若宮(貞仁親王:10歳。後の白河天皇)が即位するまで生きて欲しかった」
禎子内親王と尊仁親王は孤立無援でした。禎子内親王の父三条院は道長に冷遇され早くに崩御していましたし、母妍子も34歳で亡くなっていました。
関白頼通は、尊仁親王に「出家してはどうですか」と言って、皇位継承から外そうとしたくらいです。
そこに敢然と立ち向かったのが能信です。後朱雀天皇が明日をも知れぬ時に、尊仁親王の東宮を取りつけました。もちろん頼通の監視の隙をくぐってです。禎子内親王・尊仁親王・貞仁親王は能信を頼りに思い感謝した事でしょう。
白河法皇は後年「大夫殿(能信)がいなかったら朕も位に即けていたかどうか」と言い、もちろん権大納言で終わった能信に正一位・太政大臣を追贈しています。茂子には皇太后、そして能信夫人(茂子の伯母であり養母)にも正一位を追贈しています。感謝の程が分かります。
書き漏らしていましたが、貞仁親王の養育にはあの伊勢大輔(いにしへの奈良の都の八重桜・・の人)が仕えていて2年前に亡くなっています。72歳くらいでしょうか?高階成順に嫁し、4人の子女を産んだとあります。高階といえば賢子の夫も高階氏ですから何か交流はあったのでしょうか?
紫式部が一推しの後輩女房ですから賢子とも親しかったと思いますが・・・
同じ月には、能信の同母兄頼宗(70歳)の娘で小一条院の後添えになった大姫も亡くなっています。兄弟共に慰めあった事でしょう。
大姫の母はあの伊周の娘であり、また大姫は源基平を産み、基平の息子は行尊(もろともにあはれと思へ山桜・・・)がおり、その姉に、後三条天皇の女御となって実仁親王・輔仁親王という悲運の親王の母である源基子がいます。
悲しみに沈む高松方とは対照的に、鷹司方では9月に頼通(71歳)の嫡男師実(21歳)と正室麗子(源師房と道長の娘・尊子が両親)の間に男子(後の師通)が生まれ、摂関家の後嗣が早くもできたと賑わっていました。(続く)