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第66回 承明門院・在子

前回の主人公、後嵯峨天皇は生後1年半で母を亡くしました。父・土御門上皇も望んで流刑となりました。その邦仁王(後嵯峨天皇)を引き取り、後嵯峨天皇から終生尊崇されていた祖母・在子(ありこ)とはどんな人生を送ったのでしょうか?やはり波乱万丈の生涯でした。

1171年、在子は、平清盛の後室時子の異父弟能円と、高倉能季(時々出てくる粋な人)の姪である範子の間に生まれました。
1183年7月、平家は西走し、能円は一緒に京を発ち、遅れても範子が乳母をしていた尊成親王(後の後鳥羽天皇)と娘在子を連れて来るようにと伝えてきました。
範子が行こうとすると、叔父の範季が「この皇子に光が射してきているのに京を離れてはならぬ」といい範子は留まります。
範季の予言通り、尊成親王は四の宮ながら、祖父の後白河法皇から帝位を授けられます。

後鳥羽天皇の乳母を務める範子に近づいてきたのが、例の土御門通親です。通親は平教盛の娘を妻にしていましたがそれを捨てて範子を妻にしようとします。範子も能円が戻ってくるかどうか分からないので通親を受け入れます。そして男の子を二人産んで、三人目を懐妊中に能円は京に戻ってきますがどうしようもありません。

在子は9つ下の後鳥羽天皇の後宮に仕える様になります。まあ乳姉弟ですから本当に姉の様な親しさがあったのでしょうか。

1195年12月、25歳の在子は、16歳の後鳥羽天皇の第一皇子為仁親王を産みます。
そして1198年1月に後鳥羽天皇は、院政をしたいので(源頼朝は院政こそ世が乱れる元凶と反対をしたが強行)、数え年4歳の為仁親王に譲位しました。土御門天皇の誕生で在子は国母となりました。

しかし気まぐれで好き嫌いの激しい後鳥羽上皇の愛は、後から入ってきた、高倉範季の娘重子に移り、すでに皇子も生まれていました。在子の母範子の従妹が重子という関係でした。

1200年8月、30歳の在子の母範子が病死します。実父能円もすでに前年に亡くなっていました。
また政略の為とは言え、3人の男子を成し、最愛の妻となっていた範子を亡くした土御門通親も悲嘆にくれました。
いつしか通親と、後鳥羽上皇の愛を失った養女在子が密通しているという噂が立ちました。
真偽のほどは分かりません。しかしこれで後鳥羽上皇からの愛は完全に無くなり、通親の勢力にも陰りが出て、1202年10月に通親は54歳で亡くなります。

頼みは我が子の土御門天皇でしたが、大人しい天皇よりも、後鳥羽上皇は重子が産んだ気鋭な守成親王を愛し、1210年11月、16歳の土御門天皇を譲位させ14歳の守成親王が即位します(順徳天皇)。そしてこれから皇位は順徳天皇の子孫に伝える事をほのめかします。
絶望した在子は翌年11月、41歳で出家しました。

しかしそれから10年後、承久の乱がおこります。後鳥羽上皇も順徳上皇も流刑となり、乱には無関係だった我が子土御門上皇も望んで土佐に流されます。そして病で亡くなった、典侍通子が産んだ身寄りのない孫・邦仁王を引き取るのでした。

それから20年。雌伏の時が続きました。土御門家はかなり凋落しましたが、異父弟定通は希望を持っていました。ひょっとしたら邦仁王に光が射すかもと。
その通り、四条天皇が12歳で崩御して、鎌倉幕府から承久の乱に関係なかった土御門上皇の皇子をという事で邦仁王が指名され、後嵯峨天皇となったのです。

いろいろありましたが、晩年の在子は、当今・後嵯峨天皇の祖母として精神的・経済的にも安定した様です。また在子は、身分低い生母から生まれた、後嵯峨天皇の第一皇子宗尊親王を養育し、在子82歳の時、親王が11歳で鎌倉将軍として迎えられるのを喜んで見送ったと言われています。

そして正嘉元(1257)年7月、在子は87歳で亡くなったのでした。
次回は在子のライバル、修明門院重子を取り上げます。


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