第10回 フリッツ・ハーバーと毒ガス
「化学兵器の父」とも揶揄されるフリッツ・ハーバーは1868年12月、まだドイツ帝国ではないプロイセン王国のシレジア(現ポーランド)のユダヤ人家庭の染料商の子として生まれました。生母はまもなく亡くなりましたが、継母とは良好だった様です。しかし父とはうまくいかず、化学に興味を持っていたフリッツは父の仕事を継がず大学で化学の研究に打ち込みます。
当時、ドイツは化学の面で世界先端を行っており、フリッツは空気中の窒素からアンモニアを生成し、肥料とする成果を挙げています。
そう言えば、はるか50数年前、技術の授業(当時は男女別習で男子は技術、女子は家庭科でした)で、先生が「チッ葉・リン果・カ根」を連呼して、「テストに出すぞ~」と言われたのを今でも覚えています。つまり窒素は葉に良く、リンは果実、カリウムが根の部分に良いという事です。フリッツの発明した化学肥料で、現在の農業生産の3割を支えているとも言われます。昔、妻への土産に花屋で大きな牡丹を買った時、「ご主人、来年も咲きますからね」などと言われましたが翌年咲きません!妻が「肥料をあげないと」と言うので化学肥料を買ってきて蒔くとすぐ咲いたのでその威力に驚いたものです。
しかし第一次世界大戦が始まって、当時ヴィルヘルム・カイザー研究所の所長だったフリッツに毒ガスの依頼がきます。集中しだすと他が見えないフリッツは毒ガス精製に邁進します。一緒にいたオットー・ハーン(ウランの核分裂の時に出てきます)が、使用してはならない戦術の「ハーグ条約」に触れるのではないかと意見すると。「先にフランス軍が使用しているらしい。それに毒ガスを使って早く戦争を終わらす事が良い事なんだよ」と、恐ろしい兵器を使う人は同じ事を言いますね。
妻クララも毒ガスに反対し、抗議とも言える自殺をしています。しかしフリッツは毒ガス研究を続けました。
1915年から使用された毒ガスは威力を発揮し、1回の戦闘で5千人以上殺害したと言われます。後遺症で失明した人も多かった様です。しかし相手側も使いだし、第一次大戦で約10万人が毒ガスの犠牲になったと言われます。
この毒ガスは更に発展し、後に第二次世界大戦のユダヤ人収容所で、フリッツの同胞を大量に殺害しました。その流れは日本でもサリンとして地下鉄で捲かれ、また後遺症の被害を現在にも遺しています。
さて、資金不足。兵力不足で結局ドイツは1918年11月敗北し、フリッツも毒ガス製作者として死刑になるのではないかと思い、再婚した妻や子とスイスへ逃亡します。しかし思いがけず、アンモニア精製でノーベル化学賞が授与される事になりました。これはやはりフランス人のノーベル賞受賞者も毒ガスを作っていた前例があった事からのようです。
ドイツに戻ったフリッツは今度は海水から金(きん)を精製してドイツの賠償金に使って貰おうとしましたがうまくいきませんでした。研究に没頭するあまり家庭を顧みないフリッツは離婚しています。
しかし1933年にヒトラー率いるナチスが政権を取って風向きが変わりました。ユダヤ人弾圧により、フリッツは研究所の所長を辞任させられます。
「私の様な愛国者がどうして!?」フリッツはユダヤ教からプロテスタントに改宗もしていました。
そして知人から「シオニズム(イスラエルに故郷を再建する運動)」に誘われ、当時イギリス委任統治領のパレスチナの研究所長になるため向かう途中1934年1月、スイスのバーゼルのホテルで亡くなりました。享年65歳。
生前の遺言により、最初の妻クララと共にフリッツ・ハーバーはバーゼルの墓に眠っています。自分の作った毒ガスで、同胞のユダヤ人が600万人(銃殺・病死も含む)近く殺されたのを知らずに亡くなったのはフリッツにとってはせめてもの救いだったでしょうか。(続く)