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第108回(番外編)姫路・刑部神社に会う。

 四月は「出会い」の月とよく言われます。今年も四月からいろいろな会に入って新しい方と出会いました。
 四月十八日に「加古川の歴史を探る会」に入って、終わった後、歴史好きの方何人かと話していたら、
「急なんですけど、明後日、姫路で『西国街道』を歩こうというのがあるんですけど、参加されませんか?」
と私より一つ上の六十八歳の男性と、七十代の女性から声をかけられました。女性が他の人に電話で承認を取ってくれたので、私も一応承諾しました。
 二十日の朝。その日は前日の雨も上がり晴天でした。気温もぐんぐん上がるとの予報で軽めの服装で臨みました。姫路駅改札に集合したのは男女各3名の6名。七十代3人、六十代2人、五十代1人です。

西国街道をスタートし、姫路城をちらちらと見ながらいろんな跡地に出会いましたが、途中で「刑部(おさかべ)神社分祀」というのに出会いました。
説明書きを見ると「光仁天皇の皇子・刑部親王とその姫の霊を鎮めるため」とありますが、このマガジンでも紹介した様に光仁天皇の皇子で怨霊となるのは他部(おさべ)親王で、謀反の罪で殺された時も15歳(20歳説もあり)で娘がいたとは聞いた事がありません。刑部親王とはもっと以前の天武天皇の皇子です。江戸時代、藩主の池田輝政公やその子女が次々と亡くなったので、何の祟りだろうという事で、豊臣秀吉が姫山(姫路城のある山)から刑部神社を移したという事でまた姫路城内に戻して、これはその分祀である様です。
まあ、昔の事ですから他部と刑部が混同して伝わったのでしょうか?

ところで驚いたのは皆さんの健脚ぶりです。最年長七十九歳の男性と、七十二歳の女性はすたすたと西国街道を行きます。一時間を過ぎても衰えません。
私はと言うと・・・日頃の車頼みでめっきり歩くのが(元々速くはないのですが)すっかり遅くなり、気温も高いのでばてばてとなりました。来た事を一時後悔までしました。
 お昼を食べる所がなかなか見つかりませんでした。全員弁当を持ってくる様にという事で、公園を探すのですがなかなか見当たりません。
 結局、名古山(なごやま)霊園の所まで行く事になり、坂道で、ずっと私の荷物を持つと言ってくれてた一つ年上の男性の申し出をそれまで断っていたのですが、ついに強引にその方は私の荷物を持って登り始めました。申し訳なかったですね!
 さて、墓がずらっと並んでいるのを眼下に私達はベンチで持ってきた昼食を開け始めました。下の墓場を見て、
「もうじき行くね!」
なんて冗談も言い合いました。
 お菓子の交換が始まり楽しい雰囲気となりました。私だけ持って来てませんでしたが・・・
 帰りはバスで姫路駅まで向かいました。行きは歩き、帰りはバスで、負担を軽くというのがこの会の方針の様です。
「来月は小野で歩きます。浄土寺に行きます。集合は加古川線のホームに十時四十分です!」
と代表の例の一つ上の男性が言いました。そう言えば男性が用意してくれた地図をほとんど見ていなかった事に気づきました。
浄土寺は行った事があったし、別れた時は行くもんかと思ってましたが、今は健康のためと楽しさを思い出して、月一なら行ってもいいかななんて思っています。(笑)
 
 
 

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