第22回 巨星・白河法皇の崩御
大治4(1129)年、正月1日、11歳になった崇徳天皇は元服しました。
正月6日、12歳の清盛は従五位下に叙せられました。武家の子にしては待遇が良すぎるので、人々はやはり白河法皇(77歳)の落胤だからかと噂しました。
正月16日には、摂政(6月に関白)・太政大臣(前年より)の忠通(33歳の)娘聖子(8歳)が女御として入内しました。摂関家の実の姫が入内するのは頼通の娘寛子以来何と80年ぶりという事で慶賀が行われました。
このまま聖子が順調に成長し、崇徳天皇との間に皇子を儲ければ、忠通は強い味方になってくれる筈でした。(現実には天皇は別の女性との間に皇子を儲け、娘に同情する忠通は敵に回りました)
正月24日には清盛は左兵衛佐(すけ)に任じられ、華やかに騎馬して行進する姿を白河法皇と祇園の女御は三条西殿の北面から御覧という記録があります。祇園の女御としては孫の晴れがましい姿を見て嬉しかった事でしょう。どことなく亡き夫・惟清の面影を見ていたでしょうか?
待賢門院・璋子(29歳)は7度目の懐妊をしていました。愛する璋子の安産を祈願して三条西殿に帰った法皇は7月6日未(ひつじ:午後2時頃)の刻、突如激しい嘔吐と下痢に襲われます。
夕方には鳥羽上皇(27歳)・璋子ら関係者が呼ばれました。
法皇は璋子の事がやはり一番気がかりで、「禁忌に触れてはいけない。御産もあるし、早く帰りなさい」と言ったと言われます。
しかし下痢そして下血も続き、やがて法皇は昏睡状態となりました。
7日の朝にはもう終焉を待つ状態となり、巳の刻(午前10時頃)、崩御が確認されました。症状から見て、胃癌ではなかったかという学者もいます。
人々の慟哭はやみませんでした。特に璋子はずっと号泣していたと言われます。
20歳で即位して以来、天皇・上皇・法皇として実に足掛け58年間も権力を握り続けた帝王の崩御でした。
鳥羽上皇は自分がこれから院政の主となる気概を持っておられたでしょう。そして璋子の脳裏には、何かこれからとんでもない事-鳥羽上皇の復讐などーがあるかも知れないという不安が掠(かす)めたでしょうか?(続く)