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第59回 業平、蔵人頭となる。

元慶3(879)年正月、清和上皇の母明子の叔母で後宮を取り仕切っている尚侍(ないしのかみ)全子(68歳)が正二位に叙せられました。全子はいたく感激し、「もういつ引いてもわらわは満足ぞえ」と喜んでいました。

3月には、淳和天皇の皇后であり、太皇太后であった正子内親王が70歳で亡くなりました。常に藤原氏が皇室を侵害しないかを危惧していた生涯でした。事実、我が子恒貞親王(業平と同年の55歳)は、藤原氏の陰謀で廃太子の憂き目を見ていました。高子は藤原氏の出ですが、幼い陽成天皇の母として権力者である兄・基経と対峙しなければならないと感じていました。

5月、清和上皇(30歳)は賀茂川の東にあった基経の山荘・粟田院で出家しました。そして大和国に修行に出かけました。かつて30人以上の后妃と性生活を繰り広げた過去を反省するかの様に。
基経はそれを不思議な感覚で見つめていたでしょう。

高子はここでついに打って出ました。信頼ならない兄に対抗するために、10月、かつての恋人・業平(55歳)を蔵人頭に指名したのです。
12歳の陽成天皇に業平は近侍し、得意の和歌、馬術、相撲、弓などを懇切丁寧に教えました。
「清和天皇のように女色に溺れさせてはいけない」-健康で文武に優れた帝にするーそれが高子の願いでした。

侍従として、高子の異母姉・淑子の養子である定省王(13歳:後の宇多天皇)も仕えました。
『大鏡』にも載っていますが、ある時、業平と定省王が相撲を取る事になって、業平が定省王を投げ飛ばし、椅子に当って一部が壊れたそうです。
別の本では、定省王は万座の笑いの中、ショックで実母の所に行って嘆いていたのを慰められたという事です。養母淑子はどう思ったでしょう。可愛い養子に恥をかかせたー怒りが業平・陽成天皇・高子に向かっていったのではないかと思われます。
そして11月、淑子は尚侍となって、前任の全子に代わって後宮を支配する事となり、復讐の機会を狙っていました。(続く)

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