第63回 西園寺公経ー世の奸臣(かんしん)
奸臣とは「邪悪な心を持った家来」という意味です。残念な評価ですね。
公経は太政大臣、天皇の曽祖父、鎌倉将軍の祖父と政界で絶頂を極めまた歌人としての才もありました。百人一首に、
「花さそふ嵐の庭の雪ならで ふりゆくものはわが身なりけり」
(桜の花を散らして激しく嵐のふいている庭は、ちょうど雪が「降りゆく」ようだ。しかし本当に年老いて「古(ふ)りゆく」のは実はこの私なのだなあ)の歌があります。
老いを嘆く歌ですが、極位を極め、有馬温泉から毎日の様に湯を別荘(後に義満の金閣となる)に運ばせて贅沢三昧だったものの(かつて河原左大臣源融も同じ贅沢をしていました)、年には勝てず74歳で亡くなる前に詠んだものでしょう。
公経の姉はあの藤原定家(公経より9つ上)の妻となっており、歌の手ほどきもして貰ったのでしょうか。
家系を調べると、父方は藤原道長の祖父師輔にまで遡ります。
また、源頼朝が厚遇したきた平頼盛(母池の禅尼が頼朝を助命した)を曽祖父に持ち、頼朝の妹が産んだ一条全子を妻にしたので鎌倉幕府とは近い存在でした。ですから後鳥羽上皇からは警戒されていました。
娘掄子を同じく頼朝の姪の子を母に持つ摂関家の九条道家と結婚させ、提携して権力を持ちます。
1219年、源実朝が暗殺された後、次期将軍が難航した時に、すかさず道家の子三寅(公経の孫になる)を推挙しています。
1221年、後鳥羽上皇の倒幕の動きを公経は鎌倉に知らせました。その直後公経は上皇方から監禁されます。
しかし鎌倉方の圧勝。公経は解放され、叔母陳子が産んだ後堀河天皇が即位するにあたって、1222年には太政大臣になりました。
乱には関係してなかったものの順徳上皇と親しかったという事で謹慎させられていた婿・九条道家も復活させます。そして道家の娘は後堀河天皇の中宮となり皇子を産んでその皇子は2歳で四条天皇となります。
この舅と婿のタッグは20年間うまくいきました。
しかし1242年1月、12歳の四条天皇が事故で崩御し、二人の関係も暗転します。道家は親しかった順徳上皇の皇子を新天皇にしようとしましたが、鎌倉方が拒否。承久の乱に関係なかった故・土御門上皇の皇子を推挙します。
ここで公経の行動は鮮やかでした。最初はもちろん道家に加担していましたが、機を見て、土御門上皇の皇子邦仁王を迎えに行き、幕府の了解のもとに即位させてしまったのです。
呆気に取られる道家を尻目に公経は孫娘姞子を新帝・後嵯峨天皇の中宮とし、またすぐに皇子が誕生。皇子久仁親王は生後二か月で皇太子に立てられました。
日の出の勢いの西園寺家。道家と不仲の次男・二条良実も取り込んで公経は絶頂でした。それを見て「世の奸臣」と陰で言われたのでしょう。
しかし公経も年には勝てませんでした。曾孫の立太子の翌年8月、公経は74年の生涯を終えるのでした。ちなみにあまり出てきませんが、拙著『平家物語誕生』の主人公・源光行が同じ年の2月に82歳で亡くなっています。
『平家物語』は四条天皇の時『治承物語』からの名称変更を許されたとあります。四条天皇の外祖母・持明院陳子があの平頼盛の孫娘だったからでしょうか?
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