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第56回 土御門(源)通親―世渡りの上手い男

土御門(つちみかど)通親(みちちか)は村上源氏の嫡流です。大河ドラマでは『鎌倉殿の13人』や『草燃える』でも出てきてますね。あまり好感が持てる役ではないですが(笑)
村上源氏というのは村上天皇の皇子具平(ともひら)親王ー同じnote「源氏物語誕生の秘密」でもよく出てきますーの子、源師房から始まります。師房の姉隆子は頼通の正室で、長い間子のいなかった頼通夫婦の養子となったりしています。
師房は道長の娘尊子を妻にし俊房・顕房という聡明な男子を儲けます。俊房・顕房は兄弟で左右大臣を占めるなど活躍しますが、兄の俊房は白河法皇の不興を買って(別の皇子を応援していた)、嫡流は顕房へと移ります。顕房の娘は白河法皇の寵姫賢子で若くして亡くなりましたが、堀河天皇の母である、村上源氏は摂関家を凌ぐほどの勢いを持ちます。

顕房ー雅実ー顕通ー雅通(叔父雅定の養子)ー通親ときますが、顕房ほどの権勢はないにしても力を保っていました。そして勢力保持のためにより大きな権力者にすり寄る事を怠りませんでした。
例えば父雅通は最初美福門院に仕えていましたが、後白河法皇に清盛の義妹滋子が寵愛されるとみるや乗り換えています。
通親も父の姿勢を見倣ったのか、最初は花山院忠雅の娘を妻に迎えていましたが、平氏の全盛の時に平教盛の娘に乗り換えました。
高倉天皇にもよく仕え厳島神社にも同行したり、また福原京建設では、源光行(拙著『平家物語誕生」の主人公)の上司として活躍しました。

しかし清盛が死に、平家が都落ちするとその妻を捨て、同じく都落ちに同行した能円(第52回に登場)が残した妻範子に目をつけやがて自分の妻とします。
範子に目をつけたのは尊成親王(後鳥羽天皇)の乳母だったからです。

通親の目論見は成功して後鳥羽帝のもとでまた通親は勢力を伸ばしていきました。
ところがここに敵が現れます。九条兼実という摂関家の御曹司で通親と同じ1149年生まれです。
通親は最初敵とする気はなかったのですが、兼実の方が意識し、右大臣と高位であった兼実は、摂政という地位を利用して、権中納言の通親の昇進を止めてしまいます。
更に、通親は範子の連れ子在子を後鳥羽天皇の後宮に入れていましたが、兼実も娘任子を中宮としており、二人のライバル関係は段々激しくなってきます。
ここで通親は後白河天皇の寵妃・丹後の局を抱き込みます。

1195年3月、東大寺再建供養に訪れた頼朝・政子夫妻に娘大姫の後鳥羽帝入内を匂わせ、兼実との離反を図ります。(大河ドラマでも放送)
そしてその年8月任子が皇女を、12月、通親の養女在子が皇子を産んだのを機に翌1196(建久)年、いわゆる建久の政変で九条兼実の関白を免じ、任子も宮中から追い出してしまいます。頼朝はこれを黙認します。
大姫入内の話は立ち消えとなり、翌1197年7月、大姫は20歳で亡くなり、頼朝らは通親に利用された事を悟ります。

1198年1月、在子が産んだ4歳の皇子が即位して土御門天皇となります。後鳥羽上皇は、まだ19歳。早く自由な院政がしたかったのでしょうか?
50歳の通親が完全に権勢を握り、「源博陸」(源氏の摂政関白)と呼ばれています。
しかし翌1199年1月、源頼朝が鎌倉で53歳で亡くなると、通親は頼朝の妹が嫁いでいた一条家の者たちから命を狙われます。衰運の一条家が起こしたものとされ、解決しました。
この頃、通親は元関白の松殿基房の娘伊子(33歳?)を新しく妻に迎え、世後年男児が生まれています。この男児が後の道元という高僧になります。(真偽不明という説もあり)

1200年8月に、よく支えてくれた範子が亡くなります。(49歳)範子の叔父であり養父の高倉範季とも良好な関係ではなかったかと思います。範季も通親と同じく平教盛の娘を貰っていましたがこちらは生涯大事にしています。

さて、この頃ある噂が流れて通親は後鳥羽上皇から冷たくされます。
それは後鳥羽上皇は自分より9歳上の在子に飽きて、新たに高倉範季の娘重子(上皇より2つ下)を寵愛し皇子も生まれていました。
そして通親がその養女の在子と密通したというのです。
支えてくれた妻能子を喪った通親と、その能子の実子在子は後鳥羽上皇の愛を失っていました。寂しい二人が寄り添っても不思議ではありません。

大河『草燃える』では、仲谷昇さん演じる通親が在子と単(ひとえ)一つで密通している現場を卿二位(夏 純子さん)が目撃してお互いにびっくりするという驚きのシーンがあって、「NHKも大胆だなあ」と思いました!

しかしこの密通話は慈円が書き記したもので、慈円は通親に追い落とされた兼実の同母弟。真偽は分かりません。

ただこの頃から通親は体調が悪くなったのか影が薄くなり、1202年10月、通親は54歳で動乱の生涯を終えるのでした。

子供も多く、堀川家と土御門家は断絶しましたが、久我(こが)家と中院(なかのいん)家は明治維新まで残り家族となりました。
久我家からは戦後、久我美子さんという素敵な女優が出ました。家族の家柄なのに女優になるなんてとだいぶ反対されたそうです。そして「こが」だと誰も読んでくれないので芸名を「くが」にしたそうです。久我家の庶流として岩倉家もあり岩倉具視を輩出しています。中院家からは北畠親房が出ています。歴史にしっかりと子孫も爪跡を残していますね。



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