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第65回 後嵯峨天皇ー南北朝の遠因

後嵯峨天皇の諱(いみな)は邦仁王。承久2(1220)年2月、土御門上皇の皇子として生まれました。母はあの土御門通親の最初の妻の産んだ通宗の娘通子。すでに邦仁王は通子だけで5人目の子でした。

しかし翌1221年5月、承久の乱が起こり、7月に祖父後鳥羽上皇は隠岐へ、叔父順徳上皇は佐渡へ流されていきました。
 8月には母通子が亡くなります。
 ここで、土御門上皇は乱に関係していませんでしたが、父や弟が流されるのに朕も流してほしいと懇願し、幕府は仕方なく上皇を土佐へ流しました。
邦仁王は数えで2歳。父の事も母の事も覚えていなかったでしょう。

すでに通子の父も亡く、邦仁王は祖母の承明門院在子(後鳥羽上皇の後宮・通親の養女)の元に養われたものと思われますが流罪人の子。金銭的にも苦しかったようです。
在子の異父弟・土御門定通が何かと援助した様ですが、あの通親の全盛は今は昔、土御門家は凋落の一途を辿っていました。

邦仁王の兄達は次々と出家させられていきました。同母兄でも2人、異母兄も4人出家させられ、最後に残った邦仁王の出家も時間の問題と思われていました。しかし出家も費用がかかり、叔父の定通には何か考えがありました。

それは1234年、承久の乱の後即位した後堀河上皇が23歳の若さで崩御し、当今の四条天皇は4歳。弟皇子もいないので、ひょっとしたら邦仁王に皇位が回ってくるかも知れないと、定通は邦仁王を出家させないでおいたのです。
1242年、邦仁王は23歳となっていました。出家もせず、元服もしていないので髪は童子の様に長いままであったと言われます。貧しい中でも微かな希望を持って生きていました。

しかしついに機会は来ました!その年の1月9日、12歳の四条天皇が転倒して頭を打ち、崩御したのです。
時の摂政九条道家は、懇意の順徳上皇の皇子を推すつもりで、即位の服も用意しかけていましたが、定通は妻竹殿(北条義時と比企の姫の前との娘。前夫は大江親広だが承久の乱後逐電)と相談。竹殿の同母兄重時が六波羅探題をしていて連携して鎌倉の執権泰時に報告。
鎌倉方から承久の乱の首謀者であった順徳上皇の皇子はならぬ。邦仁王をという指名がありました。

ここで機を見るに敏な西園寺公経が邦仁王を迎えに行き、早々に即位式までしてしまったのです。服は順徳上皇の皇子のをそのまま流用し、少し小さかった様ですが押し通しました。

流浪の身同然から23歳にして最高の天子様になったのです。邦仁王ー後嵯峨上皇は今までの辛抱から解き放たれました。
早速に美貌の女官に手をつけ、懐妊させてしまいます。
驚いたのは周囲です。とにかく西園寺公経の孫の美貌の姫姞子を中宮として6月に入内させました。
その年の11月に女官が皇子宗尊親王を産みました。
そして翌年6月、姞子は皇子を産み、8月には早くも皇太子に立てられます。

1246年に後嵯峨天皇は皇太子に譲位し、更に念願の院政を始めます。当時は天皇ではなく上皇が「治天の君」として政治をするのが通例だったのです。

万事順調の筈だった後嵯峨上皇でしたが、誤算がありました。4歳で即位した後深草天皇は病弱だったのです。当時幼帝には母后がつくのですが、姞子は後嵯峨上皇との同殿を望みました。
すぐにもう一人の皇子をという事で、皇女を一人産んだ後、1249年、姞子は自身にとって2番目の皇子恒仁(つねひと)親王を産みました。
この恒仁親王は健康でしかも明朗活発でした。夫妻は恒仁親王を溺愛します。(ちょうど後年の徳川秀忠夫妻が、家光より次男忠長を愛した様に。両親の死後、家光が忠長に切腹を命ずるという悲劇で終わりましたが)

そしてついに1259年、瘧(おこり:今のインフルエンザ?)で病となった17歳の後深草天皇に譲位を迫り、11歳の恒仁親王を即位させます。これが亀山天皇です。

後嵯峨上皇は贅沢に暮らします。宗尊親王も鎌倉将軍につけました。
多くの女性を侍らせ、『増鏡』には遊興の場面がよく出てきます。
1272年2月、53歳で崩御しました。

しかし後嵯峨上皇は禍根を残しました。弟である亀山天皇の系統で皇位が行く事を母親の姞子も後押しし、兄の後深草上皇は絶望の淵に立ちます。
ここで西園寺実兼というやり手が後深草上皇の持明院に仕えていて、鎌倉幕府に働きかけ後深草上皇の皇子に皇位を奪い返します。(後に実兼は反対派の大覚寺統に鞍替えします。裏切りは曽祖父の公経同様?)
紛糾する皇位争いに幕府はついに交替で皇位につくという両統迭立を提案します。
しかし次第に対立は激化し、ついに後醍醐天皇から約60年間の南北朝の大乱に繋がるのでした。
更にこの南北朝期に勢力と財力を伸ばした守護大名が応仁の乱(1467年)をきっかけに約100年の戦国時代に突入します。

戦国時代は武士だけの戦いと私は思っていましたが、近年領民を巻き込んだものである事を知りました。殿様が負けると領民は捕えられ、奴隷として集団で売られてしまう事もよくあったそうです。その辛苦は想像に難くありません。今度も殿様は負けないだろうか?そう怯えて暮らす生活なのです。
私はかつて明石の江井島中に勤務していましたが、近くに「幽霊が出る池」というのがありました。聞くと、豊臣秀吉が、毛利方に付いた農民3~400名をその池の近くで斬首したのだそうです。刀を洗うために池が選ばれたのですね。

上に立つ方は、個人的感情・好き嫌いで物事を決定してはいけません。特に皇位という日本の大問題は。後嵯峨天皇は幼少の頃から帝王学を学ぶ機会がなかったのでしょう。
南北朝の遠因を作った後嵯峨上皇の好き嫌いは、平安後期、自らの欲望を抑えきれず、孫の后にした筈の養女と密通して崇徳天皇を生ませ、それが保元の大乱の遠因を作った白河法皇に准ずるものだと思います。
ほんとに上に立つ方は、いつの時代でも!、民衆の生活の事を考えてほしいですね!



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