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第28回 得子の懐妊に怯える璋子

長承4(1135)年2月5日、璋子(35歳)が頼りにしていた高僧・行尊(百人一首・もろともにあはれと思へ山桜・・)が81歳で亡くなりました。
璋子の不安は前年に鳥羽上皇(33歳)に入内し、寵愛されている得子(19歳)が皇子を産むかどうかでした。今や最愛の得子に皇子が生まれたら、我が子・崇徳天皇(17歳)を追いやって即位させる事は目に見えていました。

4月に保延と改元されて、まもなく得子の懐妊が発表されました。
その年、鳥羽院の下北面の武士として佐藤義清(のりきよ:18歳:後の西行)が勤仕しています。
12月4日に生まれたのは皇女でした。(叡子内親王。14歳で夭折)

叡子内親王は翌年、子のいない皇后泰子(42歳:忠実の娘)の養女となります。
その年の秋、佐藤義清は鳥羽院南殿の坪庭で記録に残る初めての歌を詠みます。「君が住む宿の坪をば菊ぞ飾る 仙(ひじり)の宮といふべかるらん」-君(鳥羽上皇)のお住まいの宿の庭を菊がいっぱいに飾る事だ。これではそこを仙の住む宮と申し上げるのが当然の事であろうよー上皇のお住まいを「仙洞御所」というのでそれに掛けて歌っているのでしょう。璋子の姿を見て、その美貌に心を奪われるのはいつなのでしょうか?

そして翌保延3年4月、得子が産んだのはまたも皇女で(暲子内親王:あきこ?:八条院として多くの荘園を持つ)璋子はほっとしました。
12月に璋子の四の宮(第四皇子)雅仁親王(11歳:後の後白河天皇)が読書始めをする事になり、講師として内大臣で博学の頼長(18歳)が付きましたが、雅仁親王の不熱心さに呆れ果て辞めています。雅仁親王は今様が大好きなのでした。実は璋子も好きで母子は気が合っていた様です。
鳥羽上皇との熊野詣ではまだ年に一度ほど続いていました。

得子は三度目の懐妊をしました。そしてついに保延5(1139)年5月18日、徳子は皇子を産みました。躰仁親王(なりひと:後の近衛天皇)です。
鳥羽上皇は狂喜し、生後三か月の躰仁親王を東宮としました。(続く)


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