第125回 後三条天皇の深謀遠慮
後三条天皇は、次代の事を考えていました。東宮貞仁親王は傍系と言えどもやはり藤原氏を母に持つ身。せっかく摂関家を抑えたのにまた復活するかも知れません。自分の様に藤原氏を母としない皇子の誕生を考えていました。
延久2(1070)年の頃、後三条天皇は自らの第一皇女で一品(いっぽん:最高位)の聡子(さとこ?)内親王(21歳)に仕える女房・源基子(24歳)の美貌に惹かれました。
聞けば基子は先頃亡くなった源基平の娘。基平とは小一条院の皇子だった人です。小一条院は後三条天皇は尊崇する母・禎子内親王の異母兄にあたる人でそれこそ道長の謀略で皇太子辞退に追い込まれた方でした。その話はよく聞いていました。
更に基子の母は藤原良頼の娘で、良頼というのは、あの中の関白家隆家の長男でした。つまり基子は道長・頼通にやられた「負け組」の集大成の様なものでした。
後三条天皇は基子を愛し、翌年2月には実仁親王が生まれます。
「この皇子を貞仁の次の帝にしよう」やがて実仁親王は数え2歳で東宮となります。
実仁親王が生まれた翌月、東宮貞仁親王(19歳)の所へも新しい妃がきます。左大臣藤原師実(30歳)の養女賢子(15歳:紫式部の娘・賢子とはもちろん別人笑)が入内します。師実には息子はできたのですが娘はできず、師実の正室麗子(32歳)の兄・権中納言源顕房(35歳)の娘賢子を養女として貰ったのです。
この賢子がまた明るく美貌で、貞仁親王生涯ぞっこんの愛した女性となりました。子供もたくさん産みましたが、不幸な事に28歳の若さで亡くなってしまいます。その時天皇だった白河天皇は慟哭し、悲しみの余り何日も御帳台から出てこず、食事も満足に取らなかったと言われます。
最初の妃となった道子(賢子が入内してきた時30歳)は捨て置かれてちょっと可哀想ですね。
やがて後三条天皇と白河天皇の次の皇位を巡る駆け引きが展開されていきます。(続く)