第85回 明石での菅原道真
昌泰4(901)年1月25日、大宰権帥(ごんのそち)に左遷を命じられた道真は2月1日に京を出立します。大宰府に行くまで道真が寄った所は「天満宮」として各地にあります。
明石は特に舟待ちとして遺跡があります。恐らく須磨から陸路で明石の駅家(うまや)跡に来たのでしょう。旅次遺跡の碑があります。旧知の驚く駅長に「駅長、驚くことなかれ、時の変わり改まるを。一栄一落、これ春秋」
讃岐守として京と往復する際、何度も言葉を交わしたでしょう。
私は明石高校出身ですが、JR明石駅から高校に坂道を歩いて行く時は必ずこの碑の側を通って行っていました。当時はそんなに感慨深く思っていませんでしたが・・・
そしてこちらの方が後だと思うのですが、もう少し南の国道2号線に面した、人丸神社に近い「休天(やすみてん)神社」があります。その名の通り、天神様が休まれた神社ということです。境内には「道真が座った石」と伝わる大きな石があって厳重に囲ってあります。
潮待ちをして、回路で大宰府に行ったのでしょう。
道真を放逐した後は、時平一派の天下です。3月、時平は一度妨害された末の妹穏子(やすこ:16歳)の入内を堂々と果たします。穏子は弘徽殿の女御と呼ばれ、(『源氏物語』のあの弘徽殿の女御のモデル?)、朱雀・村上両天皇の生母となっています。
6月に宇佐奉幣使っとなって下向した藤原清貫(きよつら:35歳:業平の娘の子)が宇佐神宮からの帰りに大宰府にいる道真の様子を見にきます。
道真はすっかり憔悴していて、「己が非を認めます」という発言をします。帰京して清貫はこれを宮中に伝えますが、道真赦免とまではいきませんでした。
7月、道真追放を祝してか、改元が行われ「延喜(えんぎ)」となりました。「延喜・天暦の治」で名高いです。
またこの年、業平の相婿であった藤原敏行が亡くなっています。業平が生きていれば77歳ですのでその少し下くらいでしょうか。歌人である能書家だった敏行は、亡くなった後すぐに生き返って自分のお経を書いてまた絶命したという逸話も残っています。没年は907年説もあります。(続く)
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