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第71回 光孝天皇崩御

仁和2(886)年3月26日、菅原道真(42歳)は任地の讃岐に着きました。予想通りの田舎でしたが、道真は早速現地を巡り、善政に務めようと思いました。
10月29日には、清和天皇の女御だった、藤原良相(よしみ)の娘多美子が亡くなりました(年齢不詳)。子供はいませんでした。かつて良相がライバルである同母兄の良房に対抗して入内させましたが、希望は空しく潰えました。しかし多美子は天皇に愛された様です。

年が明けて、光孝天皇は病勝ちになりました。在位4年目。しかし58歳。当時の平均寿命は越えています。
群臣の心配は東宮(皇太子)がまだ未定という事でした。天皇は、太政大臣基経の意のままにという感じでした。基経の外孫の皇子・貞辰親王(14歳)が居たからです。
しかし基経はそうしようとはしませんでした。それもその筈、基経は異母妹・淑子の養子・定省(その時は源氏:21歳)を皇位に即けるという密約をしていたのです。陽成天皇退位に協力してくれた見返りに。

8月22日、天皇は重態となりました。基経以下の群臣は天皇に皇太子決定を要請しますが、天皇は答えません。
するとどうでしょう。基経は第七皇子であった源定省を親王に復帰させたのです。
そして26日、光孝天皇が崩御すると、「勅意である」として定省親王を皇太子そして即日、践祚させたのです。
尚侍の淑子が嬉々として、三種の神器を運ばせました。

群臣たちは呆気に取られました。この離れ業。特に驚いたのは左大臣の源融です。融は4年前、陽成天皇退位の後、なかなか皇嗣が決まらない時、「近き皇胤をたずねればまろも・・」と嵯峨天皇の皇子だった出自から自薦しかけたのです。その時、基経は激昂して「一旦臣下となった者から帝位についた方はおられぬ!」と融を罵倒したからです。

「どの口が言う」という感じだったでしょう。真逆の事をしたのですから。
定省親王も信じられない感じでしたが、とりあえず東宮に入りました。皇太子気分を味わいたかったのでしょうか?
そして11月に即位式を敢行し、宇多天皇となります。(続く)


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