第70回 梶原景時
最近だいぶ時代が下ったので、『平家物語』と重なる年代まで戻ります。
さて、梶原景時は「讒言者」という事で有名です。
景時は1140年頃の生まれといい、頼朝の生年(1147年)と近いです。桓武平氏の支流で先祖は源義家にも仕えていましたが、平治の乱で源氏の勢力が墜ちると平家方に仕えています。
1180年、頼朝が挙兵すると一族の大庭景親と共に石橋山の戦いで頼朝軍を破り、山中に隠れた頼朝を探索します。
そして洞窟に隠れている頼朝を発見しますが、景時はこれをわざと見逃します。頼朝のこの大ピンチを救った訳です。もしここで報告していたら歴史はまただいぶ変わっていたでしょうが。景時には先見の明があったのですね。
頼朝が再起してから景時は降伏し、頼朝はもちろん御家人として召し抱えています。石橋山で一緒にいた大庭景親は捕えられ斬られています。天と地との違いですね。(結局20年後、景時も鎌倉方に滅ぼされますが)
景時は和歌もでき、事務能力も優れていたと言われます。そして何より頼朝が思っている事を見抜き、進んで汚れ役を買って出ました。
例えば1183年12月、上総広常と双六を打っていた景時は、突如盤を越えて広常の頸を斬りました。広常は臣従したものの強大な兵力を誇って不遜な振る舞いが多く頼朝も不快であると察したのです。
1184年から景時も平氏討伐に加わります。景時の詳細な報告は頼朝を喜ばせました。他の武将は、ただ「勝った」だけだったので。
一の谷で景時は義経に付かされていたのですが、気が合わないと分かったのでしょう、範頼の方の武士と交替しています。
そして1185年の屋島の戦いの時、船に逆櫓をつけるつけないで義経と景時は大口論となります。また摂津渡邊の津(大阪港)から暴風を圧して義経は5艘150騎で屋島に向かいます。景時は静観します。
そして景時の本体140艘が着いた時、すでに戦いは終わり平家は逃げていたので、景時は「会(え)に合わぬ花、六日の菖蒲」(法会に花が間に合わない、端午の節句の五日に菖蒲がない。間に合わぬ例え)と景時は嘲笑されました。
そして1か月後の壇ノ浦の戦いでは先陣を希望する景時は、自分が先陣をするという義経に「大将の器でない」と言い放ちあわや殺し合いになりかけました。
景時は、鎌倉の頼朝に「義経は独断で傲慢」と書状を送ります。頼朝がもう義経の存在を警戒しているのを承知での手紙でした。
案の定、義経は追われ、奥州に逃げたものの頼みの秀衡は亡くなり、子の泰衡から攻められて自害します。
その首が1189年、鎌倉に来た時、景時と和田義盛が検分しています。景時はどんな心境でかつて争った人の首を見たのでしょうか?
それから10年は景時の天下でした。頼朝お気に入りの景時はしばしば得意の讒言をし、周囲は怖れました。
しかし頼朝が1199年1月亡くなり、18歳の頼家が後を継いでうまくいかない時に11月、結城朝光が「頼朝様が亡くなった時に出家しようと思っていたのに遺命でできなかったのが残念だった」と漏れ聞いたのを早速頼家に注進します。
朝光が焦ると周囲が逆に景時弾劾を計画し、あっという間に66人の弾劾状が作られ頼家に提出されます。頼家から示された景時は何も弁明せず、所領の相模国一ノ宮に退きました。
そして年が明けた正治2(1200)年正月、一族と京を目指していたのですが、途中駿河で襲われ、一族33人と共に討ち果てたという事です。
人気者義経の敵役であり、また北条氏からも良く思われていなかったのでかなり悪く伝承されていますが、頭脳明晰で和歌もたしなんだ景時の再評価がいま研究されつつあります。
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