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第55回 崇徳院の悲劇(3)

京に送った、自ら書いた写経がぼろぼろになって送りかえされた事に崇徳上皇は、激しく怒り、舌を噛み切ってその血で写本に「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」「この経を魔道に回向(えこう)す」と書き込まれたと言います。
この日から上皇は髪も整えず爪も切らず、さながら夜叉か天狗の様になっていきました。
そして保元の乱から5年半たった応保2(1162)年正月18日、愛する重仁親王が足の病により23歳で亡くなったという事が讃岐にも知らされてきました。上皇も重仁の母である兵衛佐も号泣し、それから塞ぎ込みの失意の日々を送り、上皇は、ひたすらこの世を呪っていました。

重仁の死にかつて乳母であった池の禅尼(清盛の母)も心を痛めました。その2年前に少年の源頼朝の助命をしたりと善行を積んだつもりでしたがやがてこの2年後、禅尼は亡くなります。頼朝が平家を滅ぼしたのを知る由もなく・・・
禅尼が亡くなった同じ長寛2(1164)年8月26日に崇徳上皇は崩御されましたが、何と暗殺されたという説があります。
讃岐でずっと恨んで呪いの生活をしているという噂は京に入っていたでしょうし、美福門院得子や藤原忠通、信西など崇徳上皇に敵対した人は次々と亡くなっていき、大きな火事も頻繁に起こっていました。
ここで刺客に選ばれたのは三木近安なる者でした。
当時、上皇は鼓岡の御所に住まっていましたが、大胆にも近安が刃を振るって御所に入ってきました。
「上皇様、お逃げ下さい」兵衛佐は必死に身を挺して上皇を逃がしました。

しかしずっと座っている生活だったので上皇は足下がふらついています。そして大きな柳の木になんとか登り隠れたのですが、不幸にも上皇の姿は前の池に映っていました。「院様、お覚悟を」近安は刃を立てました。
上皇の遺体は検視官が来るまで泉に浸されていたそうです。その後、棺に入れられたのですが、ずっと血が流れ出ていたという伝説もあります。中で出血していたのが、その時に出たと推測する人もいます。
そして遺体は白峰に送られ荼毘に付されました。
西行が当時はその粗末な陵墓を訪れ、崇徳上皇の霊と話をした(『雨月物語』)はその4年後だとも言われています。
安元3(1177)年7月、その年また多くの人が亡くなり、また清盛の娘の中宮徳子が懐妊中だったので安産祈願のため、それまで「讃岐院」と言われていたのを「崇徳院」に改めました。徳子は無事に皇子(安徳天皇)を産みました。
その後も何か凶事があると、崇徳上皇の怨霊として怖れられていましたが、建久3(1192)年3月、後白河法皇は腹水病で亡くなる前に「兄上、お許し下さい」と何度も言って、崇徳上皇、安徳天皇、頼長の霊を丁重に祀っていたと言われます。
その後も『太平記』などでは怨霊として怖れられましたが、慶応4(1868)年8月18日、明治天皇の即位の礼に際して、勅使を讃岐に遣わして、崇徳上皇の霊を京に帰還させ、白峯神宮を創建しました。その直後に明治と改元しています。
また、1964年ーと言えば前の東京オリンピックですが、昭和天皇が香川県坂出市の崇徳天皇陵に勅使を遣わせて八百年忌をしています。「オリンピックを邪魔しないで下さい」との意もあったのでしょうか?それで大成功に終わりました。今回の東京オリンピックでは崇徳天皇陵にお参りしたという話は聞きませんが、醜悪な贈賄事件が起こってしまったのは偶然でしょうか?
また現代では落語「崇徳院」というのがあって、床屋の鏡を割った人が「割れても末に買わむとぞ思う」などと落ちをつけて楽しませて貰ってます。(続く)


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