第58回 九条兼実(2)
平氏の全盛で、兼実は蚊帳の外で10年ほどつまらない日々を過ごしました。長兄・近衛基実は清盛の娘盛子を妻とし若くして亡くなると摂関家の財産は盛子を通じて平家に繰り入れられます。
しかし1179年に転機がきます。その2年前に後白河法皇の寵妃滋子(清盛の異母妹)が亡くなり(前述)、法皇は平家に嫌がらせをする様になります。前述の盛子が亡くなると財産を没収したり、清盛の長男重盛が亡くなっても同じ事をしました。そこで怒った清盛は後白河法皇を幽閉し、また当時関白だった兼実の次兄・松殿基房を罷免し、まだ20歳の基通(基実の長男・母はあの藤原信頼の妹!妻は清盛の娘)を関白とします。
基通はそんなに優秀でなかったらしく(兼実は日記に無能!と記しています)清盛は兼実に基通の補佐を依頼します。その見返りに兼実の長男良通を権中納言・右大将に抜擢します。
兼実は表面上は喜びながらも、平家の恩を受けた事を得意の日記で「生涯の恥辱!」と記しています。
政局は目まぐるしく動き、翌年以仁王の謀反があり、1181年に清盛が亡くなり平家は大きく揺れます。この頃の兼家はあまり気が合わない後白河法皇を避け、基通の補佐もせず邸に引きこもりがちでした。
そして1183年7月平家は都落ち。公卿はうまいこと同道しませんでした。
義仲は兼実の次兄基房を結びます。しかし義仲は半年で失脚。
ここで鎌倉の頼朝が兼実に接近してきました。
賢い頼朝は、京都で自分に協力できる公卿を品定めしていました。基通は平家から逃げたとはいえ才能に問題あり。基房は義仲と結んでいた。それで消去法で兼実に白羽の矢が立ったのでした。
1185年平家が滅びた後、義経に頼朝追討の院宣を与えた後、すぐに今度は義経追討の院宣を与えた後白河法皇に面と向かって批判はできなかったでしょうがもちろん日記には記しています。
1186年3月、頼朝の後押しでつに兼実は摂政となりトップに立ちました。しかし今まであまり出仕しなかったので気づかなかったのですが、上司になると厳格で妥協しない発言は、もちろんいい加減な後白河法皇と相容れる筈なくまた人望も失っていきます。何か叔父の頼長を彷彿とさせますね。
1188年兼実40歳の2月、長男の良通が22歳で急死して兼実を悲しませますが、2年後の1190年1月、後鳥羽天皇が11歳で元服すると、すぐに娘の18歳の任子を入内させ九条家にはまた喜びが訪れました。その年の11月の頼朝上洛ではいろいろと打ち合わせたでしょう。
1191年6月には頼朝の妹が一条能保との間に産んだ娘と、兼実の次男良経との婚礼がなされ、兼実は頼朝と姻戚になります。後にこの間に生まれた孫三寅が鎌倉四代将軍に貰われていきます。
1192年3月に後白河法皇が崩御すると、兼実は尽力して頼朝に征夷大将軍の宣下を出させます。
しかし頼朝が自分の娘大姫を後鳥羽天皇に入内させたいと色気を見せた時から兼実の失脚は始まっていました。土御門通親が頼朝の野望を見抜きさも力になろうと接近してきたのです。この点に関しては後鳥羽天皇にすでに娘を入内させている兼実とはライバルになり、疎遠になっていった様でした。(通親の養女も入内していましたが)続きはまた明日に!
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