第53回 元慶(がんぎょう)元年の頃
我が子陽成天皇が正月に即位してから、3月、皇太夫人となっていた高子(36歳は夫・清和上皇(28歳)が住まう染殿の宮に行幸し、そこで宴が行われたとあります。記録上では清和上皇との最後の対面でした。
先の2月には、幼い我が皇女敦子内親王が、賀茂の斎院となり離れていきました。高子には二番目の皇子貞保親王(さだやす:7歳)が手元にいました。
そして4月11日。長かった貞観から元慶へと改元されます。
10月18日、聡明で名高い菅原道真(33歳)は、文章(もんじょう)博士に任じられました。日本国第一の学者に名実共になった訳です。しかし道真は学問一辺倒でなく、あちこちに妻子がおり、また20歳年上の業平とも懇意で、二人して大山崎の賑わう遊女宿に行ったという話もあります。
11月3日、知る人ぞ知る、業平の異母兄・大江音人が67歳で亡くなります。
業平の父・阿保親王がその父平城上皇の乱で連座して大宰府に流される時に懐妊していた恋人を大江本主に預けてやがて生まれたのが音人だというのです。業平もその話は知っていたでしょう。
音人の子孫は学者・歌人・政治家として栄えました。千里(ちさと)、和泉式部の父・雅致、赤染衛門の夫・匡衡、その子孫で聡明な匡房、鎌倉幕府の頭脳だった広元、そして毛利氏。
子孫の一人通子は、土御門天皇の妃となり、以前紹介した後嵯峨天皇を産み、皇統は現在に繋がっています。
その頃、ある問題が起こっていました。かねてから兆候はありましたが、左大臣源融(とおる:56歳)と摂政・右大臣基経(42歳)が不仲で、融がとうとう出仕をやめたというのです。
融は嵯峨上皇の皇子であるというプライドがあり、また基経の叔母(母の妹)の夫でもあり、義理の叔父でした。しかし官位は下なのに全てをないがしろにする基経の態度に激昂していたのでした。(続く)