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第61回 九条道家(2)

50歳の道家が呆然としていた1242年6月10日、道家の裏切った舅・西園寺公経の孫娘姞子が後嵯峨天皇の女御として入内しました。まもなく6月15日名執権・北条泰時が60歳で亡くなります。後鳥羽上皇が崩御し、後嵯峨天皇の即位に際しては順徳上皇を排除した形で心労が溜まっていたのでしょうか。

更に絶望した順徳上皇が9月12日に流刑地・佐渡島で崩御します。46歳。一説では自殺ともされています。
自分の姉の夫であり、懇意にしていた道家はどんな心境だったでしょうか。

翌年6月、姞子に皇子が生まれ、8月には東宮となり、公経は絶頂期を迎えます。
しかし公経も年には勝てず1244年8月に74歳で亡くなります。
ここで道家は反撃に出、将軍頼経の実父を主張して、公経が務めていた関東申次(鎌倉幕府と朝廷の連絡係)の座を奪い、自分を裏切った次男二条良実(道家が愛さなかったので自業自得?)の関白を寵愛する四男・一条実経に替えました、(もうこの時、九条・二条・一条と分立していたのですね)

更に独断で関東申次を三人制として四男実経と娘婿・近衛兼経を引き入れました。
しかし道家は調子に乗りすぎました。自分が完全に復活したと思って、鎌倉将軍の実父の権威を振りかざしたのです。数え年2歳の三寅として鎌倉へ下向してから25年。27歳の頼経となってそして、反北条氏から利用されつつありました。

北条氏は執権を継承する得宗家と、それ以外(泰時の異母弟の正室腹・名越流など)の対立が起きてきていました。頼経はその勢力に担ぎ上げられ、頼経も満更ではなかったのです。頼経はそれで北条経時から強引に息子の4歳の頼嗣に将軍職を譲らされます。しかし鎌倉には大殿としている事を許されました。

道家は頼経に加担する行動を取りました。得宗家からは勿論警戒されます。
1246年4月、執権北条経時は23歳で亡くなりました。この時、義時の正室腹であった名越朝時(正室比企氏の子なので庶長子である泰時より嫡流という意識があった。『鎌倉殿の13人』での説明)の子、光時は執権職を奪おうとして失敗し、経時の弟時頼が執権となって、光時は流罪となります。そして頼経も関係していたとして時頼は頼経を京に送還します。
道家は息子頼経をどう迎えたでしょうか。

しかし道家も安泰ではいられませんでした。道家が鎌倉の混乱に乗じて後嵯峨上皇と後深草天皇を廃して、六条宮(忠成王?)を擁立した疑いで、関東申次を罷免、籠居を命じられています。いわゆる「宮騒動」です。(道家は否定)

翌1247年6月、宝治合戦で、北条時頼は長年の目の上の瘤である三浦氏を滅亡させます。その取り調べの中で、「道家が北条氏を倒して、三浦泰村を執権にする」と言っていた事が発覚します。またも道家はピンチに追い込まれますが、の時は不問にされました。

1051年3月、道家の1つ年上の正妻・掄子(道長の正室倫子に似せた)が60歳で亡くなります。舅の公経と決裂し、娘の掄子も板挟みになったでしょうが、道家とは終始仲が良く7男3女と10人も子を儲けていました。もし道家が権勢欲を出さず、大人しく家庭に収まっていたら幸せで、ツイている男で終わったでしょう。まあそれは無理だったかな?

その年の末、13歳の鎌倉5代将軍頼嗣が、足利氏と結託して幕府を転覆させようとした事が発覚し、道家もまた関係を疑われます。道家は病の床に臥します。
翌年1月、後嵯峨上皇の愛する別の女性から生まれた宗尊親王が11歳で元服します。後嵯峨上皇はこの皇位の望むのない愛する皇子を何とかしたいと思っていました。そして執権時頼との合意の元に、頼嗣を辞めさせ、宗尊親王を新将軍にしようという話になりました。ひょっとしたら聡明(ずる賢い?)な時頼の事。三浦を挑発して滅ぼしたり、いろいろな謀反は時頼の計算だったのかも知れません。

1252年2月19日、宗尊親王は華々しく鎌倉を目指して京を出立します。
それを聞いた道家は2日後の21日、様々な呪いの言葉を発して卒倒し息絶えたと言います。享年60歳。暗殺されたという説もあります。

道家はどこで「道」を間違えたのでしょうか?
ただ、道家の子孫は九条・二条・一条と現在まで存続し、九条道孝の四女節子姫は大正天皇の皇后となって昭和天皇を産んでいます。(この項終わり)


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