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第75回 建春門院新大納言(1)

新大納言の局とも言われる彼女も源平の争乱の歴史に翻弄された女性でした。
新大納言は1160年頃、藤原成親を父に、藤原俊成の娘で歌人の京極局を母に生まれます。ですから藤原定家は叔父に当たります。
しかしこの成親の娘に生まれたのが波乱万丈の幕開けでした。

美貌であり、最初は順調にいきます。12歳の頃、後白河法皇の寵妃であった建春門院(滋子ー清盛の義妹)に仕え、局も賜り厚遇されていたといいます。そして13歳の時に、1つ年上の平維盛の妻となります。
維盛は平重盛の嫡男で、これまた美貌で「光源氏の再来」ともてはやされていました。
また成親の妹は維盛の父重盛の正室となっていました。重盛は清盛の嫡男です。
1173年に男子(六代)を1175年に女子を儲け、この頃が一番幸せな時でした。
しかし1176年7月に、建春門院滋子が35歳で亡くなると暗雲がたちこめてきます。

滋子を失った後白河法皇は今更の様に、自分より清盛の方が勢威が上だと認識します。父成親は法皇の側近でした。
1177年6月、平家を倒そうという「鹿ケ谷の密議」が発覚し、成親は死罪の所、重盛の妻の兄という事で、重盛が懇願し、備前に流されるという事になりました。
しかし結局7月に成親は殺されます。槍で殺されたとも食事を与えられずに絶食死したとも言われます。

1179年7月、平重盛は42歳で亡くなり、異母弟の宗盛が嫡男となるに及んで、維盛の立場は微妙になります。
そして1180年8月、源頼朝の挙兵。総大将を任された22歳の維盛でしたが、富士川の戦いで兵数も少ない上に東国武士に恐れる平氏軍は水鳥の羽音に驚いた逃げ帰り、怒った清盛から維盛は入京を禁じられます。
1181年閏2月、清盛が亡くなり、宗盛が平家の総領となります。

1183年5月、維盛を総大将とした平家軍は、木曾義仲との倶利伽羅峠の戦いで大敗。半数以上を失って帰京し、7月ついに京を捨てて西走する事になります。
維盛は妻子を京に残して、平家軍に同行しますが、一の谷の戦いの後逃亡し、結局高野山で出家し、滝口入道の見守る中、那智沖で入水したと言われます。
1185年3月、平家は滅亡し、秋に北条時政が入京し、平家の残党狩りをします。「褒美を出す」とのお触れに、平家の子供たちを密告する動きが活発化します。中には色白の上品な子を平家の血ではないのに密告したのも相次いだそうです。幼な子の首をまるで猫の首を切る様に切られた平家の婦人で、その首を懐に入れ、気が狂ってしまった方もいました。

嵯峨野の辺りに母子3人で身を隠していましたが、ついに金目当の女房に密告され、六代は北条方に連れ去られてしまいました。(続く)

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