第34回 東三条院詮子
詮子は道長の4つ上の姉、そして当今、一条天皇の生母で国母と崇められていました。そして気も強く、円融天皇の女御だった時、皇子を産んでいるのでてっきり「中宮」にして貰えると思ったら皇子を産んでいない同じ女御の遵子が中宮に冊立されたので、怒って実家から宮中には1年以上行かなかったという話があります。可愛い一人子を会わせてくれない円融天皇は譲位して、皇子を東宮にしました。これには詮子の父・兼家の誘導があったものと思われます。
さて、香子が夫を亡くした長保3(1001)年の後半9月中旬から、詮子の四十の賀が道長主催で土御門邸で行われます。
10月9日には一条天皇が御幸、そして道長の二人の男子が宴の中で舞いを披露しますが少し事件が起こります。
まず正室倫子腹の10歳の鶴君(たずぎみー後の頼通)が陵王を舞います。上手に舞えたのですが終わるとさっさと帰ってしまいます。
続いて側室の明子腹の9歳(本当は10歳だが倫子方に遠慮して9歳とした?)の巌君(いわぎみー後の頼宗)が納蘇利(なっそり)を舞います。こちらも上手に舞った後、ご祝儀に貰った布を肩にかけ、もう一度簡単に舞います。周囲はその可愛らしさに大喝采です。
これを見た倫子は立腹。舞いの師匠に褒美をあげませんでした。一方、頼宗の師匠には、喜んだ詮子が従五位下を叙しています。後に頼通の師匠にも褒美を上げましたが。
明子はかつて安和の変で失脚した左大臣源高明(光源氏の最有力モデル)の末娘で身寄りを亡くした時、詮子が妹分として引き取り、弟の道長を婿として東三条殿の南に新しく新居として高松殿を建てさせたほどの入れ込みようでした。
倫子の方は鷹司方と呼ばれ、この高松方とはやがて、特に道長の晩年に対立していく事になります。それは全て鷹司方の子女を優遇し、高松方は一段下げた待遇だった事に原因がありますが。
ところで詮子は、冷たくしていた定子が最期に遺した媄子内親王を引き取り可愛がっていました。しかし四十の賀を終えた詮子は閏12月に体調を崩します。
閏12月15日には大赦をし、16日には伊周を本位に復するという宣旨を出します。
しかしその甲斐もなく、詮子は方違えで移動した別当の行成の邸で崩御するのでした。
『源氏物語』の光源氏が明石から帰京してから、出家していた藤壺は政治的な発言をよくして源氏を助けますが、この東三条院詮子も出家した女院であり、この行動も香子は参考にしたかも知れません。