第120回 尊仁親王東宮への攻防
後朱雀天皇(37歳)の背中の腫物の状態は増々ひどくなっていき、寛徳2(1045)年正月の頃にはすでに危篤が近い状態となっていました。
大宮彰子(58歳)は9年前の後一条天皇の崩御に続いての我が子の不運を嘆いていました。
ここで動きがありました。今の東宮親仁親王が即位するとして問題は新東宮です。後朱雀天皇の第二皇子、尊仁親王(12歳)はなかなか英明な皇子に育っていました。
関白頼通(54歳)は何と尊仁親王に出家を勧める使いを送ります。母親が禎子内親王で姪とはいえ、ずっと弾圧してきたので不仲だったのです。尊仁親王が即位すれば自分の栄華はありません。父道長がやってきた様に都合の悪い皇子の立坊は阻止する積りで、たかを括っていました。
しかしそれを聞いた異母弟の能信(51歳)は敢然と立ち向かいます。
かつて中の関白家の隆家が、一条天皇の崩御の直前に敦康親王の立坊を願い出ましたが「今は難しいであろう」と言われ、出てくる時、「話にならない」と憤然としていたという話があります。その頃の事を見聞きしていた頼通は大丈夫だろうと思っていたでしょう。
正月15日、能信は頼通が退出したのを狙って、病床の後朱雀天皇に謁見し、尊仁立坊を奏上します。後朱雀天皇は怪訝な表情をしたでしょう。しかし能信は「尊仁様は聡明でしっかりしておられます。あの方を天子にしなければこの国の損失です」くらい言ったでしょうか?
翌16日、後朱雀天皇は譲位を宣言し、そして新東宮に尊仁親王を指名します。頼通は驚愕したでしょう。大宮彰子は我が子の考えならばと黙認しました。東宮大夫(だいぶ)にはもちろん能信がなりました。かつての小一条院の様に東宮になってからでも嫌がらせが予想されるので油断はなりません。
そして全てを成し遂げて、18日、後朱雀天皇は崩御しました。
今一人、気を揉む人がいました。能信の同母兄・頼宗(53歳)です。頼宗の娘延子は懐妊していたのです。もし皇子ならば・・・頼宗も野望を持ちます。
しかし4月20日、生まれたのは皇女でした。正子内親王と名付けられました。頼宗は能信に全面協力を誓います。
7月21日、安心した禎子内親王は、夫・後朱雀天皇の冥福を祈るべく出家します。(続く)