第79回 皇太后高子を廃后に。
寛平8(896)年6月30日、東宮敦仁親王(12歳)の生母・胤子が亡くなりました。没年は不明ですが、宇多天皇が30歳なのでその前後でしょう。
宇多天皇は嘆きと同時に口惜しがりました。
「東宮が即位したなら皇太后となれたのに」
怒りの矛先はいまだ美貌と権勢を誇る二条の后・高子(55歳)に向けられます。
一つ年下の元・主人、陽成上皇も元気であり、復位を企む群臣もいます。
知恵者の道真が策謀を巡らします。
「二条の后様は、護持僧の善祐(45歳?)とただならぬ中で、妊娠しているという噂まであります。この際、綱紀粛正のために廃后にすべきかと」
まるで江戸時代の「江島(絵島)・生島事件」の様に、スキャンダルとされました。
9月22日、高子は廃后となり、皇太后の位を剥奪されました。(死後に復活)ただ、前皇太后の対面を保つという事で400戸の収入が授けられました。
善祐の方は伊豆に流されました。歌人の伊勢とも交流があったと言われます。
しかし護持僧が、高貴な女人を世話するのは当り前の事。玄昉は、聖武天皇の母・宮子の病を治したと言われます。まあ、称徳天皇と道鏡の場合は謎が多いですが。
これは結局、復位が考えられる陽成上皇、そしてその弟の貞保親王の即位を結果的に失わさせる処置だと思われます。母が廃后となってしまっては。
陽成上皇は怒り狂い、内裏に押しかけてきますが、「上皇と言えども参内は許されません」と突っぱねています。これは今度は、譲位した宇多上皇が、道真左遷の時に内裏に入ろうとして拒否された事に結局しっぺ返しされてしまいます。
陽成上皇の怒りを鎮めるためにもう手は打ってありました。宇多天皇の妹・源綏子を内親王に戻して妃とするというのです。
陽成上皇は高子と相談したでしょうが、これを受け入れます。当時、陽成上皇の周囲には身分の高い妻はいなかったので。
そして陽成上皇は、綏子内親王に恋の歌を詠みます。
「筑波嶺の峰より落つる男女(みなの)川 恋ぞつもりて淵となりぬる」
この陽成上皇のただ一首遺る歌は、藤原定家によって『百人一首』に採られています。
しかしこの高子の醜聞・不評は現代でも続き、尊敬する作家・海音寺潮五郎さんでも「高子はとんでもない女だ」と歴史解説に書いておられます。最近は少し、「本当は純粋な女性ではなかったか」と宝塚歌劇を始め、好評価がなされていますが。この動きがもっと進めばいいと思います。(続く)