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第21回 業平と小野小町・僧正遍照(昭)(2)

『百人一首』第12番に
「天(あま)つ風 雲の通ひ路吹き閉ぢよ をとめの姿しばしとどめむ」-美しい五節の舞姫たちをもう一度見たいという、カーテンコールの様な歌だと言われています。
これを詠ったのは僧正遍照ー在俗の時は良岑安貞でした。安貞は桓武天皇と内麻呂が差し出した妻との間に生まれた良岑安男の八男です。つまり桓武天皇の孫に当たり、同じく桓武天皇の孫であった仁明天皇から可愛がられたようです。蔵人頭をしていてよく仕えました。35歳の時、仁明天皇が41歳で崩御し、悲しみの余り出家したという事です。
また同様に桓武天皇の孫に当たる業平とも歌人であるし付き合いはあったと思います。

さて、小町とは百夜通いの深草少将のモデルの一人ともなっている安貞です。小町は仁明天皇の女官とも更衣とも言われ、天皇にぞっこんでしたからまあ別の男を受け入れる筈はないですね。百夜の時、雪に埋もれて亡くなったと悲恋にしています。明日は雪が降る予報とか。恋しい人の所へ行く時には気をつけて下さいね!
遍照は皇太后高子から山科にある元慶(がんぎょう)寺の開山となりました。またの名を花山寺といい、あの花山天皇が出家するという歴史もできました。遍照は母が光孝天皇の乳母という事もあって僧正に出世したようです。また在俗の時に儲けた息子も僧にしてそれが素性法師です。(百人一首21番 今来むと・・・)遍照は西暦890年、75歳まで生きたようです。

小町の方は西暦900年、やはり75,6歳まで生きたと言われます。
「美女は歳月に復讐される」
すっかり老婆となって、地方を回って落ちぶれ果てたなどという伝説もまことしやかに言われていますが本当の所はどうなのでしょう?墓も全国各地にあります。

業平・小町・遍照は「六歌仙」の中におり、歌の名手としてお互いに歌の贈答をした様です。雅な時代ですね。

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