第18回 仁明(にんみょう)天皇の崩御と良房の躍進
業平26歳の、嘉祥3(850)年3月21日、仁明天皇が41歳で崩御します。新天皇には、藤原良房(47歳)の甥である道康親王(24歳)が文徳(もんとく)天皇として即位します。道康親王といえば、業平の父阿保親王が「密告者」の落胤をおされた「承和の変」で恒貞親王に代わって東宮になった方です。
因縁というものを業平はまた感じていました。自分も「密告者の子」として冷たい眼差しを周囲から感じた時もありました。
更に4日後、文徳天皇の女御となっていた良房の娘・明子(あきらけいこ・23歳)が皇子を産みます。惟仁(これひと)親王ー後の清和天皇です。
文徳天皇は自分を皇太子にしてくれた良房に頭が上がらなかった訳ですが、その分、女人関係では反抗して明子以外に妃をたくさん貰っていて、業平の舅紀有常の妹・静子がすでに第一皇子・惟喬(これたか)親王を産んで7歳になっていました。なかなか利発な子に育っていました。
5月に、権勢を持っていた、仁明天皇の母、橘嘉智子が61歳で亡くなって、いよいよ良房の独壇場となります。
11月、良房は第四皇子でまだ生後8ヶ月の惟仁親王を強引に東宮にします。
世間では、仕方がない事だと思いながら、良房の専横と、第一皇子なのに東宮になれなかった惟喬親王への同情が集まります。
業平も妻の従弟に惟喬親王は当たるので不遇な自分と共通点を感じ、仲が良くなっていきます。また父を「密告者」に仕立て上げ、死にまで追いやった良房への復讐を業平は感じていました。後年、それは良房の、妃に内定している養女(高子)を盗み出すという行動になっていきます。