第24回 鳥羽上皇へのご注進続く。
白河法皇崩御の翌大治5(1130)年正月3日、関白忠通(34歳)の養子・菖蒲君(あやぎみ:11歳)が頼長と命名され(頼通と道長を足した様な名)、内裏、鳥羽上皇、女院への昇殿が許されました。
忠通には姫はいるけれど、男子がいなかったので、父忠実(53歳)の勧めで英邁な異母弟の頼長を養子としたのでした。(後に11人もの男子ができますが!)
2月には忠通の娘・聖子(9歳)が崇徳天皇(12歳)の女御から中宮に進みます。
7月7日、璋子は鳥羽上皇と、法皇一周忌に法勝寺に御幸します。
上皇と璋子の関係は表面上は変わらず、上皇は璋子の美貌に魅了されていました。その年の11月には二人で熊野詣でに出かけています。(以前上皇と璋子は4回と書きましたが、調べ直したら6回でした!)璋子は法皇も含めて3人で行った事を壮大な那智の滝を見ながら思い出した事でしょう。
しかし璋子と白河法皇がただならぬ関係であった事は、鳥羽上皇の耳にちらちらと入っていました。白河法皇存命ならクビが跳ぶ事です。
翌年11月に、鳥羽上皇はやっと宇治に隠棲したいた前関白忠実を御所に呼びます。忠実が娘の勲子をこっそり入内させようとして、白河法皇の逆鱗に触れて強制的に隠居させられたのでした。
話は弾みますが、もちろん璋子に悪意を持っている忠実はある事ない事言います。
「私は見たのでございます。璋子様の足を法皇様が懐に入れている所を・・・」
「そう言えば、帝(崇徳天皇)を身籠った頃、朕と璋子は何もなかった・・・」
薄々感じていた事ですが、ここにきて璋子が法皇と示し合わせて自分を裏切っていた事にむくむくと怒りが湧いてきました。
2カ月後の翌年正月、鳥羽上皇は忠実を内覧として政界に復帰させます。
しかしそれはすでに関白となっている忠通と父子の対立を生むものでした。
(続く)