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第67回 光孝帝即位までの駆け引き

元慶8(884)年2月4日。侍従の事故死の責任を問うて陽成天皇(17歳)を退位させた基経(49歳)でしたが、その時、皇太子が決まっていなかったので、早く次の天皇を決めなければなりません。
候補は二人いました。陽成天皇の同母弟・貞保’(さだやす)親王(15歳)。そして異母弟で基経の外孫である貞辰(さだとき?)親王(11歳)。
貞保親王の母は基経と不仲の妹・高子ですから群臣は、てっきり貞辰親王を指名すると思っていました。しかしなかなか基経は口を開きません。
そして最初に出した名前は意外な方でした。

「恒貞親王はどうであろうか?」42年前、承和(じょうわ)の変で廃太子となった方です。すでに仏門に入り、60歳となっていました。しかしこれは当て馬でした。
連絡がいった恒貞親王は驚きもちろん固辞します。そして「長生きするからこんな目に合うのだ」と4年前に亡くなった同い年の業平を思い、またひたすら食事も少なめにして死のうとします。(結局、親王は9月に亡くなりました)

難渋している時、ずっと籠居していた左大臣・源融(63歳)がやって来ます。『余計な人が来たものだ』基経は舌打ちした事でしょう。基経に取って叔母の夫ですから義理の叔父にも当たるのですが長年不仲でした。
深夜になろうとする時、融が笑いながら言いました。「近き皇胤(こういん)をたずねればまろも・・・」嵯峨天皇の皇子だった融は自薦したのです。
基経は烈火の如く怒りました。「一旦臣籍に下った方が皇位に即いた例はござらぬ!」恥をかかされた融は無言で基経を睨んでいました。

近くで待機する尚侍・淑子は、我が養子定省王の父・時康親王をいつ指名してくれるのかと気が気でなかったでしょう。陽成天皇追い落としに協力する見返りの密約があったのです。

やっと基経は本命を口にしました。「時康親王(55歳)が人格的にも優れ相応しいと思う」
しかし人々は解せませんでした。時康親王は陽成天皇の大叔父。そして基経とは母方の従兄弟でしたが、外戚関係があるという訳ではありません。
深夜にも拘わらず基経以下群臣が、時康親王の邸に向かい、即位を奏請しました。
親王はもちろん晴天の霹靂といった感じで驚きましたが、妃の班子女王が強く即位を勧めました。実は班子女王は趣味が買い物の浪費家で莫大な借金があったのです。夫が天皇になれば返済できるでしょう。

いろいろな思惑の中、2月5日、時康親王の即位が決まります。光孝天皇でした。蔵人にはなぜか業平の息子棟梁(むねやな:35歳)がなりました。

人々は外戚関係の無い光孝天皇を推した基経の人柄を誉めました。しかし基経の本心は違いました。
「いつか貞辰を帝にするぞ」
新しい敵・淑子との対決が待っていました。(続く)

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