第13回 摂政忠実の困惑
平正盛が、源義親を討ち取ってその首を掲げて凱旋したきた嘉承3(→天仁元)(1108)年、白河法皇(56歳)は摂政・忠実(31歳)にある提案を持ちかけてきます。
忠実の長女・勲子(いさこ:後に泰子と改名)が14歳になり、鳥羽天皇の妃にどうかと言ってきたのです。
これに猛反対したのが、勲子の母・師子(36歳)でした。師子は19歳の時に法皇に犯され、皇子(すぐに出家)を産んでいます。父顕房の反対で入内する事はなかったのですが、22歳の時、節会で当時17歳の忠実に一目ぼれされ結婚し、翌年勲子を産んだのでした。
あれから14年。好色な法皇は成長した乙女の勲子に目をつけたのでした。
師子には分かっていました。「帝はまだ6歳ではありませぬか。宮中になど上げたら必ず法皇様は勲子を手込めにします!」
師子の猛反対に忠実は恐る恐る固辞しました。法皇は意外にあっさりと引き下がりました。
忠実はもう一つ奇怪なものを見ていました。前の年、法皇に相談すべき政治の事で参上したのに「今は会えぬ」と断られたのです。
御簾の中にうっすらと7歳の璋子が足を法皇の懐に入れて、法皇も満足そうな顔をしていたのです。
「養女の足を入れる事がまろの相談よりも大事なのか!」
憤懣が忠実を襲います。「あれではどうなるかが恐い」
その3年後、法皇はまた新たな提案をしてきました。
「そちの息子、忠通の妻に璋子をしたいのだがどうじゃ?」
師子との間に生まれた嫡男忠通は15歳。璋子は11歳。摂関家の嫡男と法皇の養女。表向きはまたとない良縁ですが、師子はもちろん反対。そして忠実も嫌でした。
「二代続けての法皇の古女は嫌じゃ」
師子は子供まで産んだ法皇の元カノ。そして11歳の璋子とてどうなっているかは分かりません。
忠実はいきなり断わるのではなく、日延べ日延べを繰り返しました。やがて法皇にもその意図が分かったのか言ってこなくなりました。
「法皇様はお怒りではないだろうか?」
忠実は案じましたが、翌年忠実は35歳の若さで太政大臣に任じられました。
「先祖の道長様、頼通様は老境に入ってからだったし、お祖父様の師実様とて47歳の時じゃ。まろは果報者じゃ」
と忠実は喜びました。しかし8年後、法皇の機嫌を損ね、当時勤めていた関白を罷免され、宇治に謹慎を余儀なくされてしまうのでした。
ところで、特に女性作家の方が璋子に対して冷たいです。(永井路子さんや杉本苑子さんなど)
璋子の方から「法皇の唇を舐めてきた」「幼いのに好色」と手厳しい表現が続きます。
しかし璋子こそ被害者ではないでしょうか?数えの5歳と言えば満3歳です。そんな判断力も何も分からない時に法皇の懐に抱かれてそして女にされてしまったのでした。
法皇は『源氏物語』を愛読していたと言われます。光源氏が若紫を引き取ってそして妻にしていく。そんな物語を地で行く様な事に歓びと罪悪感を感じていたでしょうか?
璋子の方は被害意識は最初はなかったようでした。なぜならファザコンの璋子にとって法皇は「父であり、兄であり、恋人であり、師であり、宇宙の全て」だったからです。今、イギリスのBBC放送でもジャニ―喜多川氏の事を取りあげていますが、「グルーミング」という手なづけられたものだったのでしょうか?(続く)