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第80回(最終回)源光行のその後

22歳で父の助命をするため、鎌倉の御家人になった光行は、やがて自分を家来にするためにわざと父を捕縛した事を知り、また京への郷愁にかられます。そして任務ではありますが、京都で大監物(だいけんもつ:中務省の長官)となり、後鳥羽上皇の近くにも仕えました。

1219年、3代将軍実朝の死で、後鳥羽上皇は倒幕を思い立ちます。
そして1221年5月実行に移します。その時、光行は上皇から「院宣の副え状」を書いて欲しいと依頼されます。光行の文才は有名だったので。
光行は「北条義時を討て!」という内容の副え状を書き、それは書き写されて各地へ回ります。

結局この承久の乱は朝廷方の敗北。上皇方は流され、公卿さえも斬罪になる者がたくさんいました。
副え状を書いたという事で光行は死を覚悟しました。しかし何故か鎌倉へ送られ詮議があります。
実は光行の長男で御家人の親行(ちかゆき)が助命を願っていたのです。
光行がかつて父親の助命を願った様に、今度は息子が光行の助命を願い出たのでした。

光行の学才が惜しまれ、死刑は免れました。小山朝長の邸に預かりとなり、出家してしばらくの後、光行は許されました。光行は59歳でした。

その後、光行は『治承物語』の作成に葉室行長らと協力して尽力します。
そして1230年頃、後堀河天皇から四条天皇の時にかけて『平家物語』として認証されます。これは宮廷で力を持っていた四条の局(もと治部卿の局:平知盛の未亡人で守貞親王の乳母)の力が大きいと言われます。

清盛は各方面への忖度で、悪者にされましたが、数々の悲劇を物語の中に盛り込む事ができました。
河内本『源氏物語』の編纂を表向きにしながら、『平家物語』の影の作者として満足を得、清盛の血を引く後深草天皇の即位を見届けて、1244年2月、光行は82歳の生涯を閉じるのでした。

これでnoteマガジン『平家物語誕生の秘密』を終わります。今まで読んで頂いて有難うございます!明日新年元旦からは『伊勢物語誕生の秘密』を始めます。Amazon・Kindle『「平家物語」誕生』ともども宜しくお願いします!

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