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第112回 安子立后

天徳2(958)年9月、武蔵守藤原経邦(南家)が亡くなり、それが関係あるのか分かりませんが、10月に経邦の外孫・安子(32歳)が女御から皇后へと進みました。調べると安子の母・盛子は15年前に亡くなっています。(年齢不明)盛子は師輔との間に4男4女を産むなど最初の妻として愛されていたとは思いますが、人生後半に次々と内親王が降嫁して正室の座を奪われていくのをどう思ったでしょうか?

安子立后の時に、右大臣師輔(51歳)の同母弟・中納言師尹(もろただ:39歳)はショックで気がおかしくなったとあります。師尹は野心家ですぐ上の兄を追い越して師輔に迫ろうとしていました。師尹の娘芳子(よしこ)は非常に長い髪を持った目尻が下がった美女で、古今集も全巻暗記しているという才女でひょっとしたら自分の娘が后になるかも知れないと思っていたのでしょうか?芳子は翌日女御になります。(普通は大臣の娘でないと女御になれないという暗黙のルールがありました。『源氏物語』の桐壺の更衣の父は大納言だったので、女御になれませんでした)

この年に、歌人・大中臣能宣(よしのぶ:38歳:百人一首「みかきもり衛士のたく火の夜は燃え 昼は消えつつものをこそ思へ」)の父、頼基(73歳?)が亡くなりました。頼基は大変厳しい人で、能宣の歌が周囲は賞賛しても自分が気に入らないと、枕を投げつけて叱責したと言われます。(続く)

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