第38回 清盛、僧兵と対峙。
西行が都を離れた翌年、久安3(1147)年、平清盛は30歳になりました。清盛には悩みがありました。それは後室に迎えた時子が結婚4年になっても懐妊していない事でした。
そんな中、左大臣・源有仁が病床に臥し、清盛は見舞いに行きました。実は二人とも祇園の女御が養母だったのです。
有仁の父、輔仁親王は異母兄白河法皇から人生を翻弄された方でした。有仁も法皇の監視下に置かれた人生の様なものです。
「今業平か、光源氏か」美貌だった有仁もすっかり弱っていました。
「清盛よ、しっかり生きろよ」同じ養母を持つとは言え、清盛が仇敵にも当たるような白河法皇の落胤であるという因縁の関係であるという事は知っています。複雑な思いを抱いて、2月13日、有仁は45歳で亡くなりました。正室の璋子の姉との間には子はいず、側室との間に生まれた男子は僧籍に入れられていました。
その後、時子の懐妊が分かりました。6月、産み月が近くなったので、清盛は近くの祇園社で臨時の祭りがあるというので安産を祈願するために田楽を奉納しようと家人らと訪れました。
しかしその思いはすぐに打ち砕かれました。祇園社の神人(じんにん)らが
罵倒してきたのです。
「神聖なる神社に武具など持ってくるな。馬鹿者め」
武士が武器を帯同しているのは当り前ですが、神人らが執拗に罵倒し、殴りかかっても来たので、ついに一人が矢を社殿に向かって放ってしまいました。「何と、矢を放ったか。覚えておれ」
当時は神仏習合で、祇園社は比叡山延暦寺と関係がありました。
清盛の父、忠盛はすぐに下手人を検非違使に差し出すよう命じ、清盛は渋々納得しました。しかし延暦寺の僧兵らが気が済まず、朝廷に大挙押しかけて、「平家の忠盛、清盛を流罪にせよ!」と強訴しにきたのです。
鳥羽法皇は困り公卿の会議を開きました。内大臣であった頼長(28歳)は厳罰を主張しました。摂政の忠通(51歳)はおろおろとしていました。会議は翌日に持ち越しました。
騒ぎを聞いた崇徳上皇(29歳)は、比較的仲の良かった頼長に、穏便に済ますようにとの手紙を出しました。そして会議では「銅の罰金」を払うという軽微なもので済みました。
清盛は「やはり私の事を同じ白河院様の胤と思っていらっしゃるのだろうか」と感謝しました。そして大きな勢力を持つ叡山との対決がまたあろう事を自覚したのです。
7月に、この騒動の元を作ってしまったと恐縮する時子は、無事に男児(後の宗盛)を産んで、平家は久々の慶事に喜びたったのでした。(続く)
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