第47回 惟喬(これたか)親王の出家
※先に連絡を。来週、兵庫県明石市のアスピアという所で、「みんなの学校」という企画の中で講演をする事になりました。近隣の方で興味ある方はお立ち寄り下さい!(無料です)
2月25日(土)10:30~11:30 8階 G-5 「平家物語の人々」
2月26日(日)10:30~11:30 8階 G-5 「伊勢物語について」
貞観14(872)年正月、菅原道真(28歳)の母が亡くなり、道真は喪に服しました。
2月に、良房の与党であった右大臣藤原氏宗が63歳で亡くなりました。良房は高子の異母姉淑子(35歳)を後妻にし、連携を図っていました。淑子に子はなく、不憫に思った異母兄の基経(37歳)が従兄の時康親王(43歳:後の光孝天皇)の正室腹の第3王子:定省(さだみ:6歳:後の宇多天皇)王を養子に世話しました。淑子は一生懸命養子の世話をしました。
そして7月、業平(48歳)を驚かせたのが、惟喬親王(29歳)の突然の出家でした。一説には良房の父で同じく陰謀家の冬嗣が自らの死期が近いと悟った時、皇位継承で邪魔な、淳和天皇の皇子である恒世親王(22歳)を葬ったという話を聞いた惟喬親王が恐怖の余り出家し、洛北の小野に隠棲したという事です。親王には幼い兼覧(かねみ)王がいましたが。
業平には事前に相談していたのでしょうか?
9月に良房は69歳で往生します。権勢を全て手に入れましたが実子の男子がなく、後世に「陰謀家」と揶揄されるようになりました。その点、養子の基経も大概なのですが、子孫が必死に隠蔽して「善人」とされています。(最近、宝塚歌劇では悪人役が多いですが)
翌年の正月に、業平は小野に惟喬親王を訪ねます。『伊勢物語』第83段に載っています。
「思ひのほかに、御髪(みぐし)おろし給うてける」とあるので、やはり業平に相談なく突然だったのでしょうか?
雪が深い中を業平は親王の御室(おむろ)まで訪ねます。親王はとても寂しそうにしていて昔話に花が咲きましたー恐らく「渚の院」などでの楽しい酒盛りでしょうか?
しかし業平は、公務があるという事で夕暮に帰る事になり、歌を詠みます。
「忘れては夢かとぞおもふ思ひきや 雪ふみわけて君を見むとは」-これが現実だという事を忘れて、夢ではないかと目を疑います。高く積もった雪を踏み分けてわが君にお目にかかりに来るようになろうとはー
業平は泣く泣く帰りました。
業平はその正月7日、11年ぶりに昇進し、従四位下となっています。
私は家内と大原に行った時、惟喬親王の墓に立ち寄りました。家内は何も知らない筈でしたが、「何だかとっても寂しそうな感じね」と言いました。
才能あって第一皇子なのに、無為に過ごした無念が現代にまで及んでいるみたいですね。
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