第41回 摂関家の確執進む。
鳥羽法皇(48歳)は、祖父白河法皇に冷遇されていた藤原忠実(73歳)に同情し、重んじており、忠実が鍾愛していた次男頼長(31歳)にも目をかけていました。
これに不安を感じた摂政・忠通(54歳)は近衛天皇(12歳)を籠絡します。頼長の悪口を何度も吹き込んだのです。摂政ですから天皇の身近にいておかしくないし、天皇の養母聖子(29歳)の父ですから忠通の言葉を信用してしまいました。近衛天皇は、「儀式に頼長が出るなら朕は出ない」とまで言われる様になりました。
今度はこれに脅威を感じた忠実が動きます。
9月25日、忠実は忠通に対して、摂政を頼長に譲渡するよう要求します。これを忠通が拒むと、翌日忠実は忠通を義絶、氏の長者も頼長に譲らせると一方的に通告します。
そして腹心の武士・源為義らを使って、忠通の住まう東三条殿に乗り込ませ、氏の長者が持つ荘園の証書や、象徴である朱器台盤などを押収します。
呆気に取られる忠通は、近く行う予定であった長男基実(8歳)の元服の式も費用がなく延期する事になり、嘆くしかありません。
「枯れ果つる藤の末葉の歎きをば ただ春の日に咲かせてぞ見る」ー今は枯れてても、春には必ず咲かせてみせるーそんな決意の歌です。
歌に関して言えば、忠通は、崇徳天皇が在位中に「海上遠望」という題で御前で詠んだ「わたの原 漕ぎ出でて見れば久方の 雲居にまがふ沖つ白波」-雲と見がうばかりの沖の白波だーが有名ですが、この時は崇徳天皇との仲は良好だったのでしょうね。(百人一首には何故か両者の歌は連続して載っています)
さて、してやったりの忠実でしたが、11月5日には最愛の母全子が宇治で91歳で亡くなりました。
夫・師通が他の女に心を移したので実家に帰り、「夫の命を縮めたまえ」と亡き父の遺影に毎夜祈ったかいがあり、師通は38歳で亡くなり、家督は息子の忠実が継ぎました。やがて摂関家のゴッドマザーとして尊崇された生涯を送りましたが、全子の本心はどうだったのでしょうか?
忠通には近衛天皇の生母・美福門院得子(34歳)が味方し、12月9日、忠通は関白になっています。天下を揺るがせた保元の乱まであと6年の事でした。(続く)
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